東海大学谷岡ゼミ京都メディア合宿に参加した

谷岡ゼミの作品発表1を見る(約13分間)

(ダウンロードするか、iTunes for mac/winで見てください。)

 土曜日にたまたまラジオカフェを通ったら、カフェのプロデューサに呼び止められ、日曜日にラジオカフェで東海大の谷岡ゼミ生がラジオ番組の発表会をおこなうという話を聞いた。かれらがどういう作品を作るのかに興味があったので、夜の発表会に参加した。

四つのグループに二、三人ずつが分かれて、それぞれにラジオカフェボランティアがコーディネータとして同伴した。グループ毎に、京都の繁華街や観光地を数時間回って、ラジオ番組を作った。一つだけはビデオ作品だった。ゼミ生の多くは四年生であり、三年生が数名であった。多くのゼミ生は、無駄な間もなく、説明すべきこともしっかりと説明していて、ここ一年間での番組制作の経験が大きく物を言っていた。

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学生の学びを中心にしたカリキュラムー三科目連動型ー

 一週間の授業計画を決める時に、何曜日の何限目にどの授業を配置するのかを決めるは大変難しい。選択科目であれば、比較的簡単だが、学部や学科必修科目であれば、かなり苦労する。しかも、一科目だけならなんとかできても、二科目以上を連動させることは至難の業だといってよい。

そうした試みを実践している、ある大学・経済学部長から話を伺った。その学部は一学年700名程度であり、ご多分にもれず、授業について行けない、あるいは経済学に関心を持たない学生が多い。しかも、他学部と比べて、経済学部生の留年率は、飛び抜けて高く、それは学部存続にとっても死活的な問題と考えられている。

カリキュラム改革の柱は以下である。

  1. 講義科目「経済学入門」と、少人数授業の「基礎演習」とを連動させていること。
  2. さらに、外国語科目もそれらと連動させていること。
  3. しかも、月曜日から金曜日の一限から三限に「経済学入門」「基礎演習」「外国語」を連続させているので、受講生は一日ほぼ同じ顔ぶれで授業を受けることになる。

「経済学入門」は、他学部生も履修している。上記のカリキュラムを始めたのは、平成15年からである。前年の「経済学入門」の成績を経済学部とそれ以外の受業生で比較すると、ほとんど差がなかった。ということは、専門的な関心を持っているため、当然ながら成績が優位にあるはずの経済学部生の優位性が出ていなかった。

しかし、平成15年以後、毎年の統計を調べてみると、年々、経済学部生の成績が上昇していることが明らかになった。今年度末にはこのカリキュラムで教育された学生が卒業することになり、そこでの留年生の推移が明確になる。それによって、どこまで成果が上がったかわかる。

「経済学入門」は少数の教員が担当しているが、「基礎演習」は、学部教員全員が担当している。「基礎演習」では、「入門」の授業内容を理解させることを主眼としている。いずれの教員も経済学専攻であるので、「演習」で授業内を解説することが可能であるとのこと。しかも、これらの科目を連携させるために、E-learning教材を利用し、経済学部院生をTAにして、教員と学生との間をつないでいる。

これだけでも大変なことだが、さらに外国語科目も連動させている。この意図は、初年次の授業をできるだけ連動させることで、学生にとっては仲間作りが可能となり、大学側としては、学生の動向が把握できることである。三科目を連動させている学部は、わが国の大学でも極めてまれだろう。外国語の場合、非常勤講師依存度が高いので、そのスケジュール調節には頭を悩ませることだろう。

私は、この試みに対して、いくつかの意見を言った。

  1. 三科目連動型の試みは全国でもめずらしく先進的である。
  2. 欲を言うならば、これに情報処理科目を連動させれば、ほぼ完成形に近くなる。
  3. 他大学の場合、担当教員の密接な話し合いができないとすれば、TAを中心にした運営体制を敷くべき。

他大学での運営をアドバイスする時には、第三点を強調している。それは、第一、第二点を実現可能にする方策であるからだ。もちろん、自大学・学部には、院生がいないとか数が集まらないという障害もあるが、その場合は、他大学からも集めればいい。新しい教育体制を敷く時には、コンテンツについては教員に依存するが、授業運営においては、教員よりも、TAを中心にした方がいいと思うからだ。

一限から三限までを統一したカリキュラムで組むことが、学生の学びを促進することになるか疑問を呈する意見もある。しかし、私は間違いなく促進すると思う。もちろん、こうしたカリキュラムの決定過程や運営体制にもよるが、学生側から見た授業はどうあればいいのかを教職員が意識する点では、従来とは一線を画するものである。こうした試みが次々に現れてもおかしくない。そこまで大学教育の刷新が求められているのだから。

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「高校生を大学生にする」リメディアルって、前向きなんだ!

 大学入学時点で、高校時代に習得すべき授業を履修してなかったり、習得状況が不十分であったりする学生に対してどのような教育をするのかは、リメディアル教育と言われる。大学生の学力低下が言われる中で、大学の授業を理解できない学生が多発する中で、かれらを誰がどのように教育するのかが大きな問題となっている。

先週、大学コンソーシアム京都で開催された高大連携教育の研究会では、この話題が大きなテーマとなった。京都のある国立大学の専門導入教育をめぐる報告に対して、法政大学の藤田哲也さんが討論者として登壇されたので、リメディアル教育の視点からさらに議論を深める必要があったからである。

実は、私自身は、リメディアル教育というネーミングもその教育もあまり好きではなかった。高校時代に履修しなかった、あるいは不十分な理解しかできなかった科目を大学入学後に、予備校や元高校教師を招いて授業するということが効果を上げるとは思わなかったからである。

どういうことかと言うと、「あなたたち学生は、学力が足りないので、予備校や高校に行き直しなさい」という教育に思えてならいからだ。現状はともかくとして、大学生になったのに、もう一度高校に戻れと言うのは、学生の意欲をそぐ。その中で、どういうわかりやすい授業をしても、あまり効果がないだろう。

もちろん、

「大学におけるリメディアル教育についての趨勢を見ると,今や必要かどうかを議論している段階ではなく,何をどのような形で誰が行うかを考える段階にあります」

という方向性は否定できない。しかし、この分野の専門家である東北大学の新井克弘さんが年末のフォーラムで発言されていたように、「リメディアル教育がうまく行っているところはほとんどない」そうだ。

このまま放っておいても、事態はさらに悪化する。じゃあ、どうするかだ。

そのきっかけが研究会でえられた。高校段階の教育が不十分だから、予備校や高校教師に授業を任せるのではなく、大学教員がそれを補う工夫をすべき、という発表がおこなわれた。たとえば、工学部では数学や物理は必須であり、それの理解度が不十分では専門教育に支障がでる。それを前提にしつつも、大学教員は、高校時代に履修したことを前提に授業をするのではなく、履修を前提としない授業を工夫すべき、とのことである。

こういう発言は、リメディアル教育に対する認識を転換させる点で大いに意味がある。これまでは学生側の学力不足は、高校や学生自身が解決すべきで、それが達成された後に、ようやく大学教員が登場するという構図になっていた。そうではなく、むしろ大学教員自身が大学教育のレベルで、どれだけかれらに迫れるかという努力こそが問われているのである。もちろん、物理学にしても、それを専門にする理学部教員だとどうしても、より高度な内容を教えようとするので、高校段階での履修を前提にした授業から抜け出すことが難しいそうだ。専門ではない教員の方が容易である、とのこと。

ここからわかるのは、専門家は、専門的な関心を持っている学生を教育することは得意だが、それ以外の学生を教育することには慣れていない、ということである。そう考えると、リメディアル教育も単に後ろ向きな教育と考えるのもおかしい。むしろ、「高見にいる者」(?)が下りてきて、かれらとともに悩みながら、新しい教育を作り出している最先端の努力をすることになる。

狭義の「リメディアル教育」は別にしても、広義なそれは新しい転換をする時期が来たのだと思う。

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年賀状廃止の波紋ーメディアへの掲載ー

 年賀状廃止のアナウンスは、様々に広がっている。

これまで送っていた方はもちろん、ブログに書いた記事を読んで、感想を寄せてくれる人も増えている。その中で、マスメディアも検索から知ったようだが、さっそくコメントを求めに来た。

1月22日産経新聞文化欄に「”脱・年賀状”その理由は」という記事でコメントを求められた。記事には、次のように記載されている。

“脱・年賀状”その理由は…

寒中見舞いを手書きする友田さん。ツバキ、梅…はがきの柄やあいさつ文も一人ずつ変化をつける=東京都内

 平成19年用のお年玉付き年賀はがきの販売枚数は36億2000万枚で、3年連続で減少したと日本郵政公社が発表した。携帯電話の普及とともにインターネットのメールで新年のあいさつをすませる若者が増えたことが原因とする説が根強いが、同時に「これまで年賀状を出していたが、やめた」という人も目立つという。“脱・年賀状”その理由は-。

メールで思う存分

 「大変恐縮ながら、メールでの年賀のごあいさつに代えさせていただきます」。京都精華大学の筒井洋一教授(国際関係論)は数年悩んだ末、これまで手書きでしたためてきた年賀状200通のうち90通を今年からやめ、そんな一文を添えたメールを送った。

 「はがきだとスペースが限られていて、ありきたりの表現にまとめるしかない。メールなら文字数に限りがないので、一人一人にメッセージを存分に書き込め、気持ちを伝えることができる」と考えたからだ。

 送信したメールには今年の抱負や、送る人それぞれへのメッセージをつけた。その結果、年賀はがきの何倍もの文字を書き込むことができた。10人ほどとはその後メールの交換が続き、「よく思い切った」「私にはそこまでできない」などの賛同や驚きの反応のほか、年に一度会うかどうかの研究者仲間とは「今度一緒に研究プロジェクトを立ち上げよう」という話も持ち上がった。

 「こうした交流につながったのはメールに変えたおかげ」と筒井教授。「新年のあいさつは、言葉に自分の気持ちを乗せることが何より大切。来年はもっとメールにシフトしようと思っている」と語った。

実は、このやりとりをSkypeで録音しようと思ったのだが、うまくいかなかった顛末は既に1月20日に書いた。トレンドにうまく合うと、ブログ検索によって、一気に広がる実感を持った次第である。

年賀状を書く行為よりも、書かないで新しいことに挑戦する意味の大きさを大切にしたい。

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映画ざんまいの週末でしたー『ヘンダーソン婦人の贈り物』『不都合な真実』『硫黄島からの手紙』ー

映画を見に行こうという気持ちの余裕を持ったのは三ヶ月ぶりだと思う。2時間あまりの余裕があれば、気持ちの切り替えのために見に行けばいいと思うのだが、そういう器用さのない自分がいる。

卒業論文の査読も終わって、期末試験が始まると、一瞬だが気持ちの余裕が訪れる。昨日は、ちょっと込み入った要件を話した後に、映画館まで自転車で出かけて、途中飲み物を買い、ふらふらと街を眺めることのなんと楽しいことか。こういう時には、何を見たいではなく、何でもいいから見たいという気持ちである。

映画館に着いたらすぐに今からすぐに見られる映画を探すと、『ヘンダーソン婦人の贈り物』という作品が目に入った。よく知らなかったが、渋そうな俳優が、戦時中の英国で裸をまじえたレビューを上映し続けた逸話を映画化したとのこと。演劇興行というやくざな世界に入り込んだ英国貴族婦人の破天荒な振る舞いと劇場支配人との落ち着いたやりとりを見ていると、映画の伝統の重みを感じさせる。俳優のほとんどが渋めなので、私も含めて観客のほとんどが高齢者であることはしようがない。でも、映画館に行くと決意するまでのエネルギーが嘘のように吹っ切れる作品だった。

今日は、二本見た。これも少し遠い別の映画館だが自転車で行った。最新のシネコンなので、ネット予約ができた。しかも、一本目の『不都合な真実』は、環境保護キャンペーンとタイアップしているので、なんと500円で見られた。大統領になりそこなった元ゴア・副大統領が、選挙後の主たる活動として地球温暖化問題に取り組んでいるが、世界中で開催しているスライド講座の模様を中心にして構成された秀逸なドキュメンタリーである。ゴア元副大統領とその父親は、インターネットなどの通信政策や高速道路網の整備で有名であるが、実はその背後には、地球科学のバックボーンがあることがわかり驚いた。京都議定書に彼が貢献したのは、もう一つのライフワークだった。彼のプレゼンのうまさは、スティーブ・ジョブス(アップルCEO)にひけをとらないし、それが政治臭を感じさせるにしても、こういう地味であるが、実は根本的に重要なテーマに取り組む彼のメッセージを無視することはできないであろう。

続けて、二本目の映画も見た。『硫黄島からの手紙』は、太平洋戦争の本土空襲の死命を制する日米間の争いを、米国側から見た『父親たちの星条旗』と対をなして、日本側から見た映画として上映された。米国資本でありながら、ほぼ全編日本語であり、日本側の当時の時代考証をしっかりした映画であった。史実ではないにしても、降伏した日本兵を米兵が銃殺するシーンを入れたのにはかなりの勇気がいったと思う。

戦争というのは、個人の思いを超えた力を持つものである。そのため、栗林中将が米国育ちであることが、どこまで守備戦術に影響したのかもわからないし、実際にリベラルな態度かどこまで可能だったかというと疑問も残る。しかし、そうした史実はともかくとしても、国のバイアスを超えた理解を深めようという思いが日米俳優・スタッフに伝わる作品である。

映画にとりつかれた人たちの側に、しばし寄り添った時間であった。

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おくればせながらSkype

 まわりにSkypeを使う知り合いがいないので、これまであまり使ってなかったが、最近使い始めている。

もちろん、Macの場合、iChatがあり、昨年はそれで授業もしているのだが、windowsユーザとはSkypeが不可欠だ。

新年早々、本国で調査している中国留学生と、報告書の完成に向けて話し合う必要ができた。おりしも、昨年末に台湾南部の地震によって、中国大陸との通信障害が発生したので、新年に延期したのだった。昨夜も話したが、まだメールやWebでも障害が発生しているようだ。ともあれ、当方は、Bluetoothの無線ヘッドセットなので、パソコンから離れても会話ができるので実に快適だ。

また、別件でメディアの取材を受けた。まもなく記事に掲載されるが、テーマが電子メールであったので、先方にSkypeで取材のやりとりを録音していいかと提案してみた。先方は、Skypeもテレビ電話も使った経験がなかったので、どう反応していいのかわからなかったようだ。

Skypeでのやりとりを録音するのは、ブログにPodcastで流したいと思ったからだ。昨年、雑誌『AERA』での電話のやりとりを録音した経験があるので、今度はSkypeで双方の会話を録音したいと思ったのだった。

ただ、こういう提案をしながら、録音可能であることは提案後にあれこれ調べてわかったのだった。いかにも場当たり的な私らしい。Macの場合、Garage Bandの最新版だと双方の音声が録音可能になっていた。なんとも便利になっている。

結果的には、メディアとのやりとりは、メールと電話で終わってしまって試すことはできなかったのだが、こういう時にはタイミングよく、先ほど別の大学でオンライン授業を担当した知り合いとSkypeで話すことができた。iChatに比べると、まだ音声も不安定であり、不満は残るが、それでも簡便に音声通話や会議通話、そしてテレビ会議までも使えることはありがたい。

1995年から2000年まで、ドイツの大学と私のゼミとがテレビ会議で授業を実践していたのが、わが国における海外とのオンライン授業の先駆けであった。そのころは、メールが精一杯で、無料のツールを使って、何度かテレビ会議をしたが、そこでの動画は静止画が精一杯であった。また音声もめったに聞こえないのであり、テレビ会議に使える代物ではなかった。したがって、当時の海外とのオンライン授業は、メーリングリストとWebだけであったが、それでもそれを一番早く実践したことに意味があったと思う。

ゼミ生とも、Skypeを使ったオンラインでのやりとりをしたいので、早く試してほしい。今からはじめるのはお世辞にも早いとは言わないが、携帯電話が会話のすべてという学生の現状からすると、まだましかもしれない。

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まだまだ落ち着きません

 先日の事件の余波はまだ続いている。事件が解明されないので、周辺の警備や検証が続いているからだ。

メディアに追われている学生が一様に不満を持っている。献花しに行くと、メディア関係者が一斉にやって来て、にやにやしながら感想を聞かれるとか、学内でも、答えたくもないのに、執拗にコメントを求められるとか枚挙にいとまがない。そうしたごたごたを繰り返しながらも、映像では予定調和的にきれいに収められているのが、関係者と取材者とのギャップを生んでしまう。

こういう時には、冷静にふるまうことが唯一なせることである。日々の業務をこなしながら、進展を見守っていきたい。

合掌。

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国際関係論の新傾向

 昨日に続いて、国際関係論研究会の話題である。本日は、他の報告者の報告内容について説明する。

三日間のテーマは、最後にして、二日目以後の報告にコメントをする。

アメリカの保守と世界秩序:柏岡富英(京都文教大学)

  70年代のニュー・レフトが90年代にはネオコンになったことは、冷戦に(予期した以上に)あっけなく勝利した米国が、過大に優位性を過信することで、米国が他国と比べて特別な存在になったことを、近代化論との関係で報告した。

グローバル時代の国際結婚ー主婦化という戦略ー:嘉本伊都子(京都女子大学)

 日本には、外国人の家政婦が不在であることは、日本社会の閉鎖性の結果である。国内的には、男女の格差がなくなってきたことで、農村部の男子の配偶者が不在となった。そこで、中国やアジアから「アジア花嫁」を輸入した。風俗産業のアジア人女性は、性を商品化することで賃金を得ているが、「アジア花嫁」は、無料の性サービスを満たす上に、親の介護を背負う「嫁化」を求められる。

 戦後の日本女性は、自分よりも学歴の高いサラリーマン男性と婚姻することで、専業主婦という特権を得る。専業主婦は、給与を夫に依存することで、むしろ「よき妻」「よき母親」を求められ、家事と教育に全力を注ぐ。

 学歴の高い男性と同等の地位を得た女性は、海外の高学歴男性と婚姻することで、地位を得る。

 国内での男女平等が進行すると、海外から底辺層を流入させることで、代償措置を取るという格差構造が世界化されることは衝撃的だった。

国境を越える子:柄谷利恵子(九州大学)

アフリカやアジア諸国で、恵まれない環境にいる子供を先進国の人が養子として引き取る事例が多発化するなかで、こどもの権利条約に基づいて、1993年ハーグ条約で条約化した。英国の法制度を事例にして、国内と国際的な養子との異同関係、マドンナの事例を挙げてながら、子供の意思が確認できない状況を含めて、大人と子供の関係、養親と実親、先進国と途上国などの不均衡な関係を前提に、どういう方策があるのかについて議論した。

1月7日

冷戦後の国際紛争と空爆:定形 衛(名古屋大学)

NATOによるユーゴ空爆を事例にして、空爆後の平和形成の意味を論じた。空爆の是非はともかくとして、国内での平和復興には、世界的には事例によって様々な相違があるが、そこでは未解決の問題と、対処可能な問題とがあることを議論した。

チェチェン紛争ーその経過と背景ー:野田岳人(野田岳人)

ソ連時代やロシア時代におけるロシア・中央アジア民族政策の中で、分離・強制移住・帰国・孤立などを経てきたチェチェン民族とナショナリズムの関係について、紛争直前の状況について議論した。大国の意図や石油資源の存在など複雑な要因が絡まって、先の見えない現状を理解するのが精一杯だった。

グローバル化と福祉政策の衰退:松田哲(京都学園大学)

 グローバリゼーションの意味とそれに関係する英国とスリランカの事例を元に議論した。福祉国家政策は、成長政策(Growth-led Medeated Security)と公的支援策(Support-led Security)との二つの円の交差点で実施されてきたのであるが、1960年代後半から米国経済の破綻の中で、前者に傾斜した新自由主義が米国や英国で採用された。

 その動きを、交差点からより後者に傾斜した政策を採る必要から国際公共政策が唱えられている。この政策と市民社会との関係を議論するためには、市場ー公との線上での理解では不十分で、むしろ参加の多少という第二の軸を採用することで、参加程度の大きい部分に「市民社会」が入り、その逆には「権威的な動き」が入ると筒井は提案した。

久しぶりの本格的な国際関係の議論に参加して、最新動向が把握できたと共に、その重要性を再確認した点で、有意義だった。自分の知らないことを吸収し、そこに自分を置いてみることができることが学びの原点である。

ただ、蛇足ながら、三日間約22時間の詰め込み議論だった中で、参加者の何名かがかなりひどい風邪を煩っていた。うつされてはかなわないと思い、報告者が一人終了毎に、換気をしたが、甲斐なく7日夜は少しもらったようだ。

ゼミ生には、風邪だけはひくな、と言っているので、火曜日の授業までには直そうと、8日は静養していた。おかげで、夜にはほとんど回復したことで胸をなぜおろした。

みなさん、風邪は自分の大切な時間と体力を失うだけでなく、仲間のそれをも奪います。くれぐれもお気をつけください。

以下は、三日間のスケジュール。

1月5日

  • アメリカの世界支配とイラク戦争:管英輝(西南女学院大学)
  • 新しい戦争ー形態と原因ー:初瀬龍平(京都女子大学)
  • グローバルな統治性について:土佐弘之(神戸大学)

1月6日

  • アメリカの保守と世界秩序:柏岡富英(京都文教大学)
  • グローバル時代の国際結婚ー主婦化という戦略ー:嘉本伊都子(京都女子大学)
  • 国境を越える子:柄谷利恵子(九州大学)
  • イラク戦争と兵士の家族:市川ひろみ(今治明徳短期大学)
  • インターネットの管理をめぐる課題ーセルフガバナンスの再検討ー:筒井洋一(京都精華大学)

1月7日

  • 冷戦後の国際紛争と空爆:定形 衛(名古屋大学)
  • チェチェン紛争ーその経過と背景ー:野田岳人(野田岳人)
  • グローバル化と福祉政策の衰退:松田哲(京都学園大学)
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インターネットの管理者は誰なのか?

カウンターカルチャーとインターネット(約14分間)

電話とインターネット(約6分間)

報告の前半(約10分間)

報告の後半(約10分間)

(ダウンロードするか、iTunes for mac/winで見てください。)

 新年早々の5〜7日の三日間、国際関係論の研究会に参加して、報告しました。

年末年始が忙しかった一つの理由が、この報告準備でした。三ヶ年間の科学研究費最終年度にあたって、研究メンバーが自分のテーマについて、報告しました。私にとっては、現在ではあまり取り扱わなくなった、しかし未だに重要な国際関係論分野での研究です。

私の報告テーマは、「インターネットの管理をめぐる課題ーセルフガバナンスの再検討ー」です。1960年代末から開発されてきたインターネットの特徴と管理方法は、「自律・分散・協調」と「セルフ・ガバナンス」という言葉で表されますが、その当初の理念と現状との落差を明確にしようという意図を持っています。

報告レジュメは、以下です。

1)インターネット・ガバナンスとは、

インターネットを構築・運営・利用する上で必要なルールとルール作りの機構を検討すること

2)インターネット・ガバナンスの時期的変化

第一期:1960年代末〜1995年半ば

    技術者だけの閉じた世界

    ボランティア的な管理

第二期:1995年半ば〜現在

     一般利用者を含む多様な構成

     ビジネス的利害の肥大化

     政府の介入

3)ICANNの設立

 Internet Corporation for Assigned Names and Numbers

   ボランティア的な管理から組織的な管理へ

  業務内容

    IPアドレス、ドメイン・ネーム、ルートサーバ管理だけの技術的組織

 ラフ・コンセンサスは難しく、中央集権的な決定が不可欠

4)米国政府の介入

  • 1998年1月  「グリーン・ペーパー」

         政府の管理色が強く、批判を招く

  • 1998年6月  「ホワイト・ペーパー」

          新法人の機能,組織形態などの具体案 民間委譲

  • 1998年秋   ICANN創設 「米国で法人登記した民間の非営利法人」

ICANNの抱える原理的矛盾

 ICANNは、意思決定システムとしては政府のような中央集権的な採用していないものの、ICANNが担うIPアドレスとドメイン・ネーム・システムはインターネット上で一義に決まらなくてはならない

ドメイン・ネーム・システム(DNS)

     ホスト名とIPアドレスの対応関係

ルートサーバ   世界には、13のルート・サーバ

           米国 10,欧州2 日本1

      それぞれの管理形態や方法は、個別に運用されている

5)ICANNのガバナンス上の矛盾

   創設理事 特定の技術者だけで決定をおこなおうとする

          ↑

         メンバーからの強い批判

   米国政府の認証条件

     ユーザの広範な参加

 

6)会員制度とグローバルな会員選挙制度の創設

  • 2000年選挙実施

    国益選挙  全登録者15万人のうち日本人が7万何千人

  • 2001年「9.11事件」によるセキュリティー偏重
  • 2002年2月  CEOのクーデター的提案

     選挙制度の改善ではなく、選挙と会員制度の廃止提案

7)米国政府の態度変更

   クリントン政権  民営化、自律促進

      ↓

   ブッシュ政権   国家関与、国益重視            

     WSIS 中国やブラジルなどの反米的批判   

8)世界情報サミット

  • 2000年7月  沖縄サミット 「沖縄IT憲章」  DOTフォース設置

            デジタル・デバイド

  • 2001年国連総会  ITU、WSISの事務局担当
  • 2003年12月  ジュネーブ(第1フェーズ)

            インターネットガバナンスが焦点化

            市民社会代表、限定的参加

  • 2005年11月  チュニス(第2フェーズ)

  市民社会の役割がより限定的

    米国、欧州   ICANN維持

    発展途上国   ITUへの移管

       「チュニス・コミットメント」「チュニス・アジェンダ」

     ICANNを含むこれまでの管理体制は維持しつつ、継続して検討

    「マルチステークホルダー」方式による「インターネットガバナンス 

     フォーラム(IGF)」の設立

  現在  

  インターネット・ガバナンス問題の根幹であるICANN問題は未解決

9)インターネット・ガバナンスの変化

  1. 利用者・参加者の量と質
  2. ビジネスの利害が肥大化
  3. セキュリティーに対する懸念の増大

   サイバー犯罪条約

10)「自律・分散・協調型のネットワークシステム」

  • 「セルフガバナンス」
  • 「セルフ」 「ラフ・コンセンサス」

 技術的な安定性を基本にしつつも、技術と社会との関係を考慮すべき

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やっぱり年賀メールはいい

 今年から年賀状は辞めると宣言したが、実際にはすべて辞めるわけにはいかない。年配の方やメールを使っていない方には年賀状を出している。また、それ以外の方で年賀状を頂いた方にも、アドレスがわかっていれば、賀状とメールの両方を送っている。少し面倒だけれども、賀状とメール(そして、ブログ)を並行させている。来年には移行作業がさらに進むだろう。

でも、この作業は予想以上に成果がある。つまり、賀状は出さなくなったけど、アドレスを知っている方にもメールを送ったのだが、そうした方を含めて本日だけでも既に10通以上の返信が来た。年賀状だとなかなかこうしたレスポンスが直ぐに来ることはないが、メールの便利さが一度途絶えたコミュニケーションを復活させたのだ。

「紙からデジタルへ」への転換については、かつていい思い出がある。95年前後の時期は、パソコン通信やインターネットが一般人にまで普及しはじめた時期である。その時に、学内の授業担当者の責任者をしていたことがある。学部を超えた学内教員全員に連絡をする手段は、学内便を使って文書を送っていた。しかし、返信や意見がほしいと思ってもなかなか戻ってこなくていらいらした。その時に、メールを使っている担当者にはメールで回したら、ほとんどが当日か、翌日までに返事が来たものだ。これによって、事務作業がどれだけスムーズに進行したことか。それ以来、メールでの連絡が主になったのだが、今回の年賀メールへの移行もちょうどその時の同じような体験をしている。

もっとも、年賀状を書くという習慣を省くことの後ろめたさもあるのだが、年末年始はいつも忙しいことを考えると、メールに移行せざるをえない。

ということで、年賀メールでの返信を期待しています。

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