手際のいい打合せ

会議は少ない方がいい、というのは誰もが考える。でも、複数のメンバーと情報を共有し、一緒に仕事しないといけない時には会議や打合せは不可欠である。

上町台地からまちを考える会の打合せは実に気持ちが良い。メンバーがいいのはもちろんであるが、冗談を交えながらも、その時に結論を出すべき事柄については必ず結論を出し、次回までの検討事項は必ず次回に原案が提出されて、結論が出されるからだ。

コミュニティー・ビジネスに関する住民意識調査であるが、年度末までに仕上げないといけないので、スケジュールがはっきりしている。ただ、メンバーは、いろいろ別件があって入れ替わるのだが、その間の引き継ぎがきっちりできているので、議事がスムーズに行く。

同じ会議でも学生諸君と打ち合わせする場合にはかなり異なる。つまり、メンバーの何名かは、開始時間に遅れてくるわ、議論が散漫だわ、結論は出ないわで、つい私が口を出してしまう。口を出すと一応まとまりと、時間までの検討事項が決まるのだが、次回に検討事項の原案が出させることは少ない。

いったいこの違いはどこから来るのかを考えるのだが、メンバーそれぞれが会議や打合せにおいて自分の積極的な関わりを求めようとしないで、ただ乗り(フリーライダー)に荷担しようとする意思があるかないかの相違だと思う。

どうせ打合せをするならば、面白い方がいいとか、工夫してやろうと考えればいくらでも面白くなる。自分の関与によって面白くしてやると思えば、きっといいものができるはずだ。

e-learningに興味があると、対面型の対話がよけいに貴重に思えてくる。「会って話せばすべてがわかる」とは言わないけど、飛躍的にわかるようになることは確かである。

会議革命

会議革命

  • 作者: 齋藤孝
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2002/10
  • メディア: 単行本
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千年先を見越したデータ保存方法

一昨年から東寺関係の古文書データベース化作業をおこなう科研に携わっている。

もちろん、私は日本中世史や古文書学には全く素人である。しかし、膨大な古文書と画像資料を簡便、かつ便利に検索でき、それが研究者やユーザの役に立つことができればいいと思っていたため、このグループに加わることになった。

東寺には様々な塔頭があり、資料館、大学図書館、個人などが所蔵した多数の文書集がある。これらは膨大であり、かつ目録も使い勝手が悪いため、該当資料を探し出すことに手間取るために、十分利用されているとは言い難い。そこで、これをなんとか最新の技術で便利にしたいと思っている。

古文書学の研究者は、膨大な時間をかけて、コツコツとデジタル化した個別データを作成しているが、それをデータベース化する技術を持ち合わせていない。そこで、私が知りあいの業者にデータの序列化やデータベース化の作業をしてもらうとうに依頼した。今日はその業者本社に寄って、システム構築の相談をした。

そこで、業者側が言ったのが、次の言葉だ。「データベース化の技術は今後どんどん発展していくので、たとえば異体字などをUnicodeとして認識する技術は今後開発されてくるだろう。したがって、データベース化作業よりも、それ以前にどの資料が別の資料(例えば、画像)とどう関連しているのかというリンクを張っておく作業をきっちりしておけば、千年先にでも検索できる。古文書という千年単位の文書や画像であれば、こうしたタイムスパンで考えるような仕事をしたい」と言った。この言葉に、同伴した古文書学者の目は一気に輝いた。「千年先まで検索可能になるというのはわれわれの専門では最もうれしい言葉である。是非取り組んでもらいたい」と話しはとんとん拍子に進んだ。

要は、データの項目、分類、類型化を将来的な拡張性を持った形にファイルを序列化し、関連するファイルをXML化する、ということである。私もXMLのことは詳しくないが、SGMLやその進化形であるXMLでリンクを張っておけば、たとえ千年後に現在のデータベースソフトが消滅したとしても、検索可能となる。

私の専門ではさすがに千年というタイムスパンで物を考えるということはないが、インターネットの技術はそうしたことを可能にする。正直言って私が過去に発表して現在まで通用しているのはそんなに多くない。

言語表現(日本語表現法)の提唱が1993年であるが、その当時主張していたことがここ数年再評価されて来ている。

もう一つは、1995年から五年間、ドイツの大学とインターネットを活用したe-learningを実践したことがわが国の文科系において、海外とのe-learningの実践では最初の試みである。京都大学高等教育研究開発推進センター編「大学教育学」培風館, 2003は、そういう評価をおこなっている。

大学教育学

大学教育学

  • 作者: 京都大学高等教育研究開発推進センター
  • 出版社/メーカー: 培風館
  • 発売日: 2003/12
  • メディア: 単行本

千年まではとても及ばないが、10年間は意味があったことは名誉なことである。さらに長く評価されるように精進したいと思う。

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調査対象への気配りと、調査への欲張り

あるテーマについて調べたいと思ったらどうするか?

テーマにもよるが、大学にいる限りまずは図書館に行って、司書にアドバイスをもらうか、自分で開架式書庫を回ってみて参考文献を探すだろう。(近頃は、図書館に行ったことのない学生もいるが、これは授業料を損している。)

次は、専門家や教員に尋ねてみるだろう。その相手がたまたまぴったりのテーマの専門家であればそこから次々と参考文献や調査内容についてアドバイスがもらえる。ただ、たいていは若干の参考文献を紹介してくれる程度だろう。でも、ないよりははるかにまし。

更に、当事者や現場が比較的コンタクトが取りやすい場合には、その関係者からアドバイスをもらう。

ただその際に、たとえば距離的には近くにいて時間的に訪問しやすい場合、その当事者にどのようにコンタクトを取るだろうか? 相手の敷居が高く、取っつきにくそうな場合だ。

  1. 手紙やファックスを送るだろうか?
  2. それとも電話で話しを聞くだろうか?
  3. あるいは、電話でアポイントを取ってから、訪問するだろうか?

ある人は、第一の方法が良いと言う。理由は、第二や第三では相手にご迷惑がかかるからと言う。

別の人は、第二が良いという。理由は、これも簡単にすませられるからと言う。

さらに別の人は、第三が良いという。理由は、じっくりと説明が聞けるからという。

どの方法がいいかは、ケース・バイ・ケースであるにしても、もし自分にとって重要な話しを聞きたいのであれば、私は第三の方法を選択する。

理由は、相手の時間を取ることがあるにしても、直接顔を合わせて話しを聞くと双方にとって安心できるからだ。遠隔地ならばともかく、近距離ならば、できるだけ直接会うようにしている。自分のつながりがほとんどいつも近くにあり、会うのが簡単な環境にいると、対面することの重要性を忘れがちになる。遠隔地の人と一緒に仕事していると、めったに会えないので、それ以前にメールで大枠を決めておき、対面する機会に一気に本論に入る。その対面は非常に貴重な機会になる。

e-learningの場合でも同様である。オンラインだけでの教育では限界があり、スクーリングや何らかの体面機会を作ることが教育効果を上げることができる。

同じ事をジャーナリストは次のようにアドバイスをしている。

ファクスですますのではなく会いに行くべし、という筒井さんの意見に同意します。

挨拶に行って相手と顔を合わせれば、相手もリラックスできます。」

ただ、彼のアドバイスは撮影対象との関係において、さらに現場らしい表現が出てきます。

あまり細かいタイムスケジュールを組まないこと。

現場の流れを事前に把握したあとは、本番勝負。取材対象への気配りと、撮影への欲張りが、現場で交差しなければなりません。失礼がない程度に、無理をおねがいすることがあってもいいのです。もう少し撮りたいと思ったら、「あと一分だけ」とお願いして3分撮らないと。

その場が必ずしも和やかに進む必要はない。要は、出来上がった作品で相手にお返しするのことです。いいの撮ったら、イライラさせたとしても喜ばれます。

「取材対象への気配りと、撮影への欲張り」という表現が面白い。

欲張った結果、相手を不快にさせることもあるだろう。その時にいかにうまく謝るかが分かれ目だ。

これは経験を積みながら習得していくのだろう。

もちろん、調査結果や撮影結果がよくないといけないのはいわずもがなである。

こういう現場を踏んだ専門家の話は、教育にも、また研究にも心したい。

もちろん、学生諸君もね。

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日本表現法10年間の歩み

三月にあるフォーラムで報告するので、報告要旨を書いた。作成時間はわずか4時間程度だったが、これまでの振り返りと今後の方向性について書いてみた。

日本語表現法の定義や歴史については、近刊の拙著をご覧頂くとして、日本語表現法には、二つの目的があった。

  1. FDとしてである。教職員の意欲喚起と教育改善に向けた努力を高めるものとして。
  2. 学生の学びを高めるものとしてである。

本当は、もう一つの目的として、学生が大学生活に適応するように努力する機能として学生指導があるが、ここではこれは取り扱わない。

第一は、講義内容・方式の改善に向けた取り組みである。これは過去10年間に飛躍的に広がり、個別教員の取り組みから組織的な取り組みへと発展しつつある。

第二は、学生の学びを支援することである。初年次教育では、学問の形式的な側面を教えることでかなりの成果が出るが、専門教育の場合には、内容的側面に入らざるを得ない。そこで、どのように専門教育に興味を持たせるのかが次の課題となる。これはほとんど未開拓の領域である。

日本語表現法が専門教育において貢献できるとすれば、学問の習慣や方法論である。どれだけ「非実学的」な学問であろうと、この点をきっちりと教えることが重要である。

学生の学びの意味と将来とを結びつけることが焦眉の課題であり、また私の課題となっている。

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調査手法と目的

本日は、午前中に、採点を終えて、その後、上町台地のコミュニティービジネス(CB)に関する調査の会合があった。

座長が建築学者であり、メンバーには社会心理学、行政学などの専門家が加わり、今後につなげる調査方式を確定する会議を持った。単なるアンケート調査であっては効率が悪い上に、調査結果が有効に使われない。そこで、より有効な方法を話し合った。CBの何を調査し、どこをどのような調査項目を設定するのかについて議論した。

CBの定義は多様であるが、われわれとしては、コミュニティー側からビジネス的な志向を持った人や組織を対象にすること。しかも、単なるなりわいとしてのビジネスではなく、コミュニティーに依拠しながらも、それを変革する意図を持った人たちをターゲットにする。そうした試みにどのような人々が集まってくるのかを調査することにした。ただ、調査地点の設定については、早急に関係者の承諾を取って調査に入ることにした。

京大の院生や阪大の三回生がそれぞれの専門を生かして協力しているが、精華大の学生も具体的な調査活動から参加する予定である。まちづくりの担い手とそこに集まる人々のネットワークを浮かび上がらせて、今後の活動に生かせるような結果を出したい。

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可能性は果てしない

来年度から、専門演習が二回生前期から始まる。

昨年は後期からだったので、今年の一年生はさぞかしびっくりしただろう。だって、夏休みが終わって、後期に入ったら、それまでは二年生後期から専門演習は始まっていたのが半年前倒しになったのだから。でも、要はその変化を自分のものにする工夫をしましょう。

ということで、教員も半年早まって事であたふたとしている。昨年は、専門演習のデモ講義みたいなことが実施できたのでよかった面もあったと思ったけど、今から思うとあまり変わらないような気がする。選考自体は重要だけど、あくまでもそれは入り口論であって、問題は中身の話しだと思うからだ。

教員との個別面談に慣れていないのかもしれないけど、初めから志望理由とか、自分の興味関心をきっちりと言える学生は少ないねえ。そういう場合には、まず私の方が、研究上の専門とか、ゼミの方針とか、ルールとかを説明してから、学生に話してもらうことにしている。でも、本当はそれは違うように思うけど。

私自身は、大学時代に取り組めることの中で、できるだけ卒業後にもつながることをゼミで実施したいと思っている。その際に迷うのは、学生が現在関心があることを卒業後にその職に就きたいという場合にそれをそのまま勧めても良いのかどうかだ。だって、自分の好きなことを仕事にするのではなく、あくまでも趣味の範囲にとどめておいた方が楽しい、というでしょう。

まあ、こういう場合は、基本的には学生の意思を尊重するが、多くの場合には、そのうち変わっていくので、あえて挑まないことにしている。ただ、困るのは、自分が就きたい職に向けて努力するのではなく、努力自体をしないまま無力感が襲ってきて転換する場合だ。こういうケースが多いので困りものだ。

いすれにしても、皆さんの能力と可能性は計り知れないのであって、努力すれば考えられないほどのことができることを実践してもらいたい。もちろん、私もそれに負けないように努力しますので。

さあ、三月の研究会報告の概要を書かないと。今日が締めきりだ!

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足湯と爪もみ

年末に一時的に体調の変調を覚えた。その時に知りあいの体育教員で、近頃、鍼灸師の免許を取ろうとしている方に相談したら、足湯がいいと教えてくれた。

朝晩、膝の下まで数十分間浸かればいいとのこと。半身浴だと寒い気がするが、足湯だと上半身だけ下着を着ておけば寒くない。さすがに朝は時間的に無理な時が多いのでしないが、夜は必ずしている。

確かに体が温まり、寝る時も気持ちいい。

年賀状にお礼を書いたら、さらに今度は爪もみもいいと画を描いて送ってきてくれた。爪の付け根のところをもんでおくと確かに気持ちが良い。私の場合には、四肢は温かい方だが、冷え性の方にはぴったりだと思う。是非お試しあれ。

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コシヒカリも今年で終わり

四、五年前から、我が家ではコシヒカリを食べている。

新潟に研究会に行った折り、地元の教員の教え子の実家で作っているコシヒカリを分けてもらった。それ以来、毎年、2〜30キロ取り寄せている。

毎年お願いしているので、一昨年のような米不足であっても同じ値段で分けてくれた。ありがたい。しかも、この農家の主人は、めっぽう筆が立つ。素朴な内容であるが、温かい気持ちが伝わってくる。たとえば、次のような文面だ。

おかげさまで今年の稲刈りも18日から始めました。いつもより5〜7日ほど遅い開始でしたが、一粒一粒の稲穂の実入りは上々のようです。ただ、やはり冷夏のせいで収量は平年の2割落ちというところです。同じ手間をかけたのにすこししかとれないというのは、気候のせいでどうしようもないとはいえ、残念です。こういう不作の時の百姓はつらいものがあります。

しかし、我が家の田んぼは過去約10年以上にわたって有機質による土作りを中心に、化学肥料や農薬をあまり使わない米づくりを行ってきましたのでこういう冷夏の年こそその土地本来の実力が出て、収量こそ減少

したものの品質は平年並みになっています。

平成5年の冷夏の年もそうでした。

また、実はコシヒカリは割と冷害に強い品種(あまり知られていませんが)で、実りそのものは

きちんと結実しましたので、粒だちも冷夏の割には良好でした。あさって、はさ木から下ろして精米し

新米をまず自宅で食べてみることにしています。楽しみです。

読み応えがあるでしょう。ずっと農家一筋でやってこられた70歳過ぎの方です。そうした方であっても、今年の震災に遭われて苦労されているようだ。

筒井様

ご心配をおかけいたしております。

先月の地震以来、非常に大変な状態が続いておりまして、お返事を差し上げるのがおくれてしまいました。申し訳ありませんでした。

このたびの地震では、住まいがかなり損壊(土台がずれたり、壁や天井が落ちたり、浴室のタイルが大きくひび割れたり)を受けました。23日から4日間は余震も大きかったため、家の中にも入れず、屋外で避難生活をしました。電気は5日目に復旧しましたが、水道が復旧したのは11月はじめになりました。幸い、人的被害はなく、やれやれというところですが、山の棚田は復旧不可能なほどの重大な被害を受けてしまいました。

そのため、来年度は耕作できるかどうか非常に厳しい状態です。ですので、我が家のお米を長い間ご愛顧頂きましたが、今年度を持ちまして販売を終了させて頂きたいと思っております。いつもお引き立てくださいまして、本当に身に余る光栄でしたが、自然災害には勝てません。

地震の直前にお出ししたお米は、当方の手違いでした。申し訳ありません。残りの30kgはお約束通り、今月中に玄米にて発送させて頂きます。

また、お正月のお餅も年末に発送させて頂きますので、お待ちください。

地震で途方に暮れている時に、心のこもったお便りを頂き、本当に恐縮しています。ありがとうございました。心より御礼申し上げます。地震から10日間以上、交通も通信も非常に厳しい状態でしたので、お返事をするのがおくれてしまいました。

やっと11月半ばを過ぎて落ち着いてきたというのが本音です。

お米の生産にめどが立ちませんので、今年度にて終了させて頂きました。元禄年間以来、ずっと作ってきた先祖伝来の田を失った悲しみは大きいですが、何とか少しづつでも復旧して再び米作りをしたいと考えております。

本当に長い間ありがとうございました。

京都のお菓子をお送りしたら、わざわざお電話を頂いた。年齢は行っていても張りのあるお声なのですぐわかった。今年の豪雪を見ると本当につらい。

でも、春になれば、また意欲を持っておられることと思う。

遠くからでもしっかりと見守っているという気持ちが伝わることが被災者の心にはかけがえのない宝物であるという。私もささやかな気持ちを伝えたいと思う。

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ドイツと朝鮮半島の統一

私の専門は、元は、国際関係論とドイツ現代史なのだが、現在ではNPO研究、e-learning、大学教育となっている。しかし、元来の専門での論文も書くことも時々ある。

2003年に出版した以下の専門書の第二節に、「ドイツ統一の教訓と朝鮮半島情勢の課題」という論文を書いた。ただ、単にドイツ現代史を扱うのではなく、朝鮮半島との比較検討で、統一問題をテーマに書いた。東アジア研究は、多言語であり、多数の資料があるので、なかなか大変だった。でも、統一問題において、これまで不思議にドイツと朝鮮との比較研究がされていないことに対して問題提起する必要があった。

北朝鮮をめぐる北東アジアの国際関係と日本

北朝鮮をめぐる北東アジアの国際関係と日本

  • 作者: 平間洋一,杉田米行
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2003/09/01
  • メディア: 単行本

本日届いた日本政治学会学会誌『年報政治学2004』の最後には、前年に執筆された研究論文に関する文献解題が掲載されている。研究者はそこから新しい研究動向を知る点で重要なリソースとなっている。そこに拙稿も掲載され、お褒めを頂いた。評者は、著者の意図をはずすことなく読んでくれて、正統は評価をしてくれた。感謝する次第である。以下の通り。

朝鮮半島における統一ないしは南北和解の可能性をドイツ統一過程を参照しつつ取り上げている。冷戦の終結と並行して進展したいわゆる「ドイツ問題」ー周辺国家の抱く対ドイツ不信ーの解消などを軸とするドイツ統一と、冷戦以後という新しい国際環境を背景とする朝鮮半島の情勢を比較し、単純な結論に走ることを自戒している。分断が半世紀を越えて持続され続けたことを考慮すると、南北統一の統一は果たして「統一」の問題なのか、それとも全く新しい国民国家の構築なのか、という重要な問題提起となろう。(文責 梅垣理郎)

誉められることでまた次の意欲が沸いてくる。

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なんとか収まった

終わってから、ふぅーというため息が出た。

いろいろ不手際が重なりこれもどうしようもなくなって、ひたすら謝る必要があった。会うこと自体難しかったが、何とか会い、自分の気持ちと頭を下げながら伝えることでようやくわかってもらえたようだ。

結果的になんとか切り抜けたので言えることであるが、人生のつらい時に逃げないで、まっすぐ進めば道が開けるということがわかった。

取り繕うことや、他人に責任を転嫁するのではなく、自らの責任を引き受けることで、相手にわかってもらえるのだ。

いい体験をさせてもらったし、これを糧に精進したいと思う。

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