吉倉さんは、高知大学の大学改革をを引っ張っている立役者である。1997年、高知大学で「日本語技法」を新設する時に、講師として呼んでいただいて以来のつきあいである。地質学の研究も今が旬とのことであり、大学副学長を務めながらも八面六臂の活躍である。
報告は、「科学技術コミュニケーションと言語表現教育の新展開」と題して、自然科学と市民との対話を促進する科学技術コミュニケーションを説いた。
プレゼン資料は、ここにある。
吉倉さんは、高知大学の大学改革をを引っ張っている立役者である。1997年、高知大学で「日本語技法」を新設する時に、講師として呼んでいただいて以来のつきあいである。地質学の研究も今が旬とのことであり、大学副学長を務めながらも八面六臂の活躍である。
報告は、「科学技術コミュニケーションと言語表現教育の新展開」と題して、自然科学と市民との対話を促進する科学技術コミュニケーションを説いた。
プレゼン資料は、ここにある。
門倉さんは、哲学から日本語教育に転向して以後、リベラルな社会と人間とのつながりを引っ張っている先駆者である。彼は、「学びとコミュニケーションの日本語力ーアカデミック・ジャパニーズからの発信」と題して、日本語教育の最新動向であるアカデミック・ジャパニーズが、留学生だけでなく、日本人学生や市民への広がりを視野に入れたものであること、を述べた。
プレゼン資料は、ここにある。
6月9〜10日、東海大学で大学教育学会がおこなわれた(変なポーズで失礼します→)。
私は、ラウンドテーブル「ことば(日本語表現法)に向かう仲間達ーNPO、日本語教師、理科系研究者ー」を主催した。パネリストは、門倉正美さん(横浜国立大学留学生センター)、加藤哲夫さん(せんだい・みやぎNPOセンター)、吉倉紳一さん(高知大学理学研究科)と私である。
私の特徴は、一つの専門分野を突き詰めることではなく、絶えず新しいトレンドを結びつけることにある。日本語表現法は、既に学会内でかなり定着して、専門家も多数生まれている。したがって、当初から関わっている私の仕事は、多数派に依拠するよりも、より先見的な少数派を育てることにあるからだ。
今回このテーブルを設定したのはいくつか理由がある。
私の報告は、ことばで対話する場合には、
にとどまらず、
を説いた。
プレゼン資料は、ここにある。
ここ半年一番力を入れた執筆/編集活動の成果がこの本に結実した。6月大学教育学会直前に完成した。日本語教員の門倉正美さん(男性)と三宅和子さん(女性)と一緒に、私も編者を担当させていただいた。
AMAZONの紹介によると、「「アカデミック・ジャパニーズ(大学での学習に必要な日本語力)」という言葉の誕生から、それをめぐるさまざまな教育の動きと発展を俯瞰し、留学生の日本語教育における実践、「市民の日本語」へと展開する論文集」となる。
実は、「アカデミック・ジャパニーズ」という言葉は、二年前に日本語教員の方とお会いするまで知らなかった。留学生の日本留学試験試験が、文法的な日本語を問うことではなく、問題解決能力を養う日本語の育成へと転換する中で、日本語教育が留学生だけでなく、日本人および市民へと広がりつつある。その最先端の動きをとらえたのが本書である。
この本を読んだ読者から既にいくつかの感想をいただいているが、その中でも一番うれしかったのが日本語専門書店「そうがく社」店主の感想である。
・・・・・・本書は、「AJ(アカデミック・ジャパニーズ)」を主題にした研究書としては初の市販書です。
本書では、
日本留学試験で説明される狭義の「大学で学ぶために必要となる日本語力」の殻を突き破り、日本人学生を対象とした「日本語表現」力、さらには現代市民社会における「コミュニケーション能力」へと、AJ概念を拡大したことにあります。自律した市民社会に必要な「ことばの教育」総体に概念を広げる「挑戦」です。・・・・・(中略)・・・・・・
外国人の日本語教育という狭い分野で商売をしている私にとって、多様性のある社会を生み出す原動力は「外国人」と「日本人」の接触場面という重層的なつながりにあるというのが、これまでの「共通する視座」でした。本書を通して、大学をはじめとした学校と現代市民社会をつなぐ新たな「共通する視座」を得られたことに感激、感謝しています。
最後に、本書はもちろん、本書に関連した「市民の日本語」(ひつじ書房)も必ず読んでくださいね。本書を読まずして何を読む!(といいつつ「ダヴィンチコード」を読んでいる私)
(「そうがく社通信6月号」から引用)
営業の最前線におられる書店からの好意的な反応はうれしいかぎりだ。版を重ねてほしい本である。
この本の編集過程について少し話したい。私が長く片思いして来た日本語教員と二年前に出会い、研究会での報告、学会シンポのパネリストなどで相互の接点をさぐりながら、本書を作り上げていった過程は面白かった。
編者代表の門倉さんは、哲学者でありながら、留学生や日本語教育に携わっていることで柔軟な発想を身に付けておられるので、編者としてのリーダシップを発揮された。また、もう一人の編者である三宅さんは、雑誌編集者の経験を生かして、綿密に文章校正をされ、原稿の修正する必要がある場合には対案を示してくれるので大変ありがたい存在だった。
執筆者の原稿に対しても、編者の意見を述べさせてもらい、相互の信頼関係の中で、校正作業も計画通り進んだ。10名ほどの執筆者がいるとかなりの遅れが懸念されるのが普通だが、本書の場合には実にスムーズだった。執筆者に対しても敬意を表したい。
↑
(ダウンロードするか、iTunes for mac/winで見てください。)
久しぶりの投稿だ。この間いろいろあったり、学会報告などが重なったりして、音声や映像を編集する気にならなかったが、ようやく気を持ち直してきた。
それはさておき、今日は、昨年度に続き、一年生必修科目「社会メディア論」へのゲスト講師として登場した。最近ワークショップづいているので、やろうかと思ったが、担当者から昨年度の同じ内容で進めてほしいということなので、ご了承を。ただ、大きな違いは自分で編集したビデオ作品(未完)を上映したことだろう。ラジオワークショップの異様な盛り上がりの一端を映像で知ることができる。
授業は、メディアの多様な形態である、音楽制作、出版、新聞、ラジオ、テレビを個人でも制作できる方法を実践しながら、メディアに対する関心を高める狙いがある。音楽制作は、音楽編集ソフトでジングルを作り、出版はWebサイトの作り方に置き換え、テレビ/ラジオは、ラジオカフェでのワークショップをラジオで放送しながら、それを映像に収めるという手順である。
シラバスの詳細は、以下の通りである。
1990年代半ば以後の市民像の転換
以前 資本の力に従属する、マスメディアの影響力、マスメディアの規制
以後 メディアに振り回されながらも、同時に自らメディアに働きかける存在である
制作者(発信者)と受信者との格差が小さくなった
コンピュータ・ネット技術の低廉化・容易化になり素人でも発信可能に
私たちがすべきことは、
「理論を頭に入れて、体で実践すること」
音楽配給会社、出版会社、新聞社、ラジオ局、テレビ局をデモを交えながら実践する
1.音楽配給会社ー楽曲の作成ー
プロの音楽はわれわれを楽しませるし、完成度が高い。
しかし、今日、コンピュータ技術の発展の中で、初心者でもある程度の音質の音楽を作ることができる。
2.出版会社ー本をオンラインで出版する
Webサイトを作る側はどういう努力をしているのか
3.新聞社ー記事を新聞のように発行する
ブログ(Blog)
ブログとは、「最新の記事を時系列にそって最速で更新できる媒体」
書き手がWebを作成する手間が省け、記事を簡単に更新できるので初心者でも利用が 簡単
↓
ブログ、日記などのユーザは既に1千万人突破
ほとんどのブログは、身の回りのたわいもない日記。しかし、中には読者へのメッセージをしっかり伝えるブログもある。
筒井の例(はてな)
http://d.hatena.ne.jp/ytsutsui/
4.ラジオ局ー自分の好きな音声を発信したい
ポッドキャスティング
ブログやネットラジオを更に発展させた発信形式。iPod のような携帯音楽プレー
ヤーでラジオ番組を楽しめるようになる仕組み
5.テレビ局ー現場の映像を流したい
ビデオポッドキャスティング
6.結論
メディアを利用する際のポイント
1.自分独自の視点や内容を伝える(表現の伝達)
2.相手を意識する(他者の意識)
3.相互に高めあう(グループワーク)
われわれが、マスメディアと同じように、情報を発信できる条件は既に準備されている。受信側ではなく、発信側からの実践こそが、今後のメディアとの関わりにおいて一番重要。
On Poetry Reading
Poetry reading meets Radio
STAFF:
同女チーム 進行、受付、ワークショップの小道具・ビデオ2台・カメラ1台用意
精華大チーム 機材操作、PA、カメラでの記録
中辻さん 機材操作、PA
LINE1 :19:00-19:40 poetry reading workshop – writing poetry
詩をつくる楽しさを体験しよう!
方法:5W1Hを使って詩の構成を協同(3人一組)で行う。
LINE2 : live radio:番組放送「詩がラジオと出会ったら」
内容要約:ネットラジオ、ポッドキャスティングなどで、ラジオというオールドメディアが、先端表現メディアになる。ポエトリーディングをコンテンツにその可能性を探る。
LINE3 : “after the radio” workshop
セサミストリートから、ラーニングアートへ nのメディアストーリー
5月8日、京都三条ラジオカフェの例会で、ラジオと詩を題材にしたワークショップが開かれた。
上田信行さんと詩人のむらさきさんが進行役を務めて、ラジオとPoetry Readingとの出会いを実現した。
プログラムは、三部に別れている。
第一部は、参加者が雑誌から自由に言葉を切り取って、それらの組み合わせから生じる新たな世界を体験するカットアップの手法で楽しんだ。当初、堅かった参加者の表情が言葉を切り取る作業を通じて、次第に熱を帯びていき、一つのストーリーを完成させようとする仲間のつながりを感じた。
第二部は、オンエアののラジオ放送である。
最初に詩の朗読があってから、オンエア前に作った詩の中から選ばれた作品を本人が朗読した。無関係な言葉の偶然のつながりが一つのストーリーとなって、参加者の心を射抜いた。不思議な体験だった。
第三部は、オンエア終了後の、メディアストーリーである。
進行役の上田さんが留学先のハーバード大学で知ったセサミストリートからはじまり、
学びとメディアの出会いをへて、ラジオや表現の可能性について語った。
事前打ち合わせおよびリハーサル三回を経験しながら、同女大や精華大の学生が生き生きと動き出す姿が印象的だった。
以下が、当日のプログラムである。
On Poetry Reading
Poetry reading meets Radio
@Radio Cafe, kyoto, japan
may 8, 2006
directed by mari motohara
produced by nm
curatorial staff:dojyo+seika team
executive producer: tetsuro matsuura(radio caf?)
LINE 1 : poetry reading workshop – writing poetry
LINE 2 : live radio
LINE 3 : “after the radio” workshop
LINE1 :19:00-19:40 poetry reading workshop – writing poetry
詩をつくる楽しさを体験しよう!
- William Burroughsのカットアップ
5W1Hを使って詩の構成を協同(3人一組)で行う。
LINE1.5 :19:40-19:45 本放送前の準備
LINE2 :19:45-19:59 live radio:番組放送「詩がラジオと出会ったら」
ネットラジオ、ポッドキャスティングなどで、
ラジオというオールドメディアが、先端表現メディアになる。
ポエトリーディングをコンテンツにその可能性を探る。
- 「アフリカ・アフリカ」の朗読
- workshopで生まれた作品の朗読
- 「詩がラジオと出会った時」
LINE3 :20:00-21:00 “after the radio” workshop
セサミストリートから、ラーニングアートへ nのメディアストーリー
- セサミストリートとワークショップ(ラジオ→テレビ)
- MIT Media Labとモチベーション研究
メタ認知とMITの教育研究について
- 表現、詩、そしてラジオ!(ラジオ→テレビ→ラジオ)
まだ五月なのに、もう祇園祭のお囃子が聞こえる。まさか?
先週末、出張帰りに本屋に寄ろうと、四条烏丸に降りたところ、笛と鐘の音がしていた。観光ブームにあやかって早めにデモンストレーションでもしているのかと思ったので、近づいていった。でも、人だかりもなく、上からただ音が聞こえてくる。二階を見あげると、窓を開け放って練習の真っ最中だった。そこは、函谷鉾保存会の事務所だった。そういえば、祇園祭の時には、ここに大きな鉾がそびえ立っていて、二階から出入りしていたことを思い出した。
あいにくiPodを持参していなかったので、携帯電話で録音(Pure Voice形式)し、それをMP3に変換したら見事に音が割れてしまった。申し訳ありません。写真も四条通りの真ん中まで出て撮ったが、やはり無理があった。これもすいません。
祇園祭は、7月17日の山鉾巡行を頂点に、13日頃から夜間に歩行者天国になって、分散している山鉾から微妙に異なる音色が聞こえてくる。この風情は夏の風物詩としてはもってこいである。
しかし、祇園祭はこの時期だけでなく、7月一ヶ月間行われる行事である。実は、私は、八年前に山鉾巡行の時に、長刀鉾の前を歩いたことがある。知り合いの息子さんが稚児さんの脇に控える禿(かむろ)役で登場し、私はその関係者として祭りの内側にいたのだった。私自身は、気楽な身分で食事があればご相伴にあずかり、儀式があればそれに同伴するということだけで、金銭的にも精神的にも気楽な立場だった。
ただ、稚児さん関係者という、特権的な立場になるためには当然ながらそれなりの負担は覚悟しないといけない。しかも、小学生の稚児さんであるから、体調を崩すときもある。この時には稚児さんが風邪だ体調を崩し、山鉾巡行前日には代役を立てないといけないかとも思われたくらいだった。幸い、稚児さんの体調も小康状態になり見事大役を果たしたのだったが、それをめぐる周辺の右往左往は今でも忘れない。
かくいう内輪の話はともかくとしても、お囃子の音色を聞くと、京都の暑い夏を引き寄せそうだ。そのせいかもしれないが、今日は、初夏の気候であった。芽をつけた花々も次々に咲きほこり、観光客も町に溢れだした。少し汗ばむ気候の中を自転車で移動するのが最もいい季節となった。
1950年代の米国は、矛盾を抱えながらも、それ自体に魅力がある。たまたま同時代の映画を二本見た。
一つは、現在封切り中の『グッドナイト&グッドラック』(ジョージ・クルーニー監督)で、もう一本は、昨年のアカデミー賞を受賞した『ray』(テイラー・ハックフォード監督)である。
前者は、50年代のCBSテレビの報道番組『See It Now』のアンカーマン、エド・マローが主人公で、映画の題名は、番組の最後にマローが言う挨拶である。当時は、マッカーシー上院議員によるアカ狩りの最中である。政治家にとどまらず、芸術家、学者、マスメディアのリベラルな人間を共産主義者とレッテル張りして、彼らを社会から追放する一大キャンペーンを展開していた。なかには勇気ある人は、彼に挑みかかろうとするが、次々と追放され、中には自殺を余儀なくされた。
彼に標的にされることを恐れて、自らの信条を曲げても屈服することを余儀なくされていた時代である。当時、ソ連は核兵器開発に乗り出し、中国でも社会主義革命が起こって、米国では共産主義への恐怖感が広がった。
こうした状況でマスメディアも沈黙を余儀なくされていた時代にマローなどはマッカーシーへの批判を展開した。当初は、彼を支持していた会社もやがてマローに圧力をかけようとする。当たり前のことであるが、当時からエンターテインメントや娯楽番組は、制作費が安いわりに視聴率が取れる一方で、報道番組は制作費がかかりながらも視聴率が取れないというジレンマを抱えていた。こうした中で番組を継続することの難しさが語られる。
確かにジャーナリズムの重要さをよく描ききっているし、外部からの圧力、放送局における経営と編集の対立、社内での軋轢なども提示して、正義の味方を描くよりも、むしろ矛盾を抱えながらもジャーナリズムを模索する姿を追っているところがいい。また、ジャズ全盛の時代の雰囲気を白黒画面で再現したり、番組の終わりには、マローは視線をカメラから外しながら、挨拶するという構図は、今ではまず使わない手法であるが、ダンディーな雰囲気にはぴったりの演出である。たしかに視聴率や制作費の問題もありつつも、ジャーナリズムがメディアの定番としての確固たる地位を築いていることがわかる。
もう一本の映画『Ray』は、レイ・チャールズの伝記的な作品である。
幼くして視力を失って以後、母親の厳しい励ましと彼の耳のよさが相まって、視力の代わりに、音を聞き分けることで、周囲の状況を読み取ることで自立して生きていこうとする。幼年期のつらい思い出から逃れようと麻薬におぼれたり、艶福家らしい側面を見せながらも、教会音楽であったゴスペルと、大衆音楽であったリズム&ブルースとを結びつけて、新しい音楽領域を開拓していった。ジャズが若者の心をとらえ、そこに挑み続けた彼の音楽的な才能を余すところなく描いている。レイの生まれ変わりかと思うほどの、ジェイミー・フォックスの好演なしにはこの映画は生まれなかったであろう。危うさを抱えながらも、その危うさをバネにして、音楽創造に浸りきる姿は、ジャズに限らず、当時の世相自体を現している。
以上、二本の映画を見て、1950年代のジャーナリズムとジャズの生き生きとした姿は、米国内の差別と繁栄、冷戦時代、古き良きアメリカと二重写しになる。われわれが生きている21世紀は、当然ながら当時の課題を克服しながら現在に至っているはずなのだが、実は未解決のまま今日に至っている。
だからこそ当時の偉業は、今日もなお振り返る価値があるのだ。
遅ればさながら、『北斗の拳』山本プロデューサーのさわりの部分の授業をアップします。
「生き方としての編集者」と「素敵なウソは、人生を楽しくする」という名言が入っています。
積極的に楽しみを求めながら、それを引き寄せて人生を歩んでいく姿勢が次々と新しいチャレンジとなっています。