「東京国際映画祭」、「いろはす」、精華大の授業

広告表現技法のメンバーがまたまた快挙です。

10月17日から開催された東京国際映画祭ですが、そのオープニングイベントとして、映画関係者がグリーンカーペットを順番に歩くという企画がありました。

今年の映画祭は、エコをテーマにしているので、レッドカーペットをグリーンカーペットに代えて、エコイベントも盛りだくさんでした。その一環として、精華大の授業「広告表現技法」の学生が、日常の素材を使い、彫刻を作るインスタレーションアーティストマークジェンキンスのサポート役となりました。具体的には、いろはすをギュッとつぶして、それを素材にして象やゴリラを作る作業を東京まで行って作り上げています。スポンサーの好意があってこその活動だが、それにとどまらず眠気や疲労を越えて動物を作り上げていっています。

実は、彼らが作った作品がオープニングイベントの公式映像に写っています。この動画の57~58分ほどのところで、プリウスから降りたゲストが歩いて行くグリーンカーペットの脇に二頭の動物が写っています。

映画祭終了後には、東京の有名な場所に展示するとのこと。その後には、さらにビックな企画を実現しようと学生が準備しているようだ。まだ公にできないこともあるのだが、多くの学生が東京で、そして、京都でも作品作りに手伝っている。精華大生に限らず、他大学の受講生も暇を見てけてやってくるのが素晴らしい。

また、決まったらお知らせします。

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臺社長もやってきた「Sing for Darfur シング・フォー・ダルフール」が同志社大学で上映

昨日、同志社大学の公式行事として、試写会が開催された。場所は、同志社で一番の人気のある寒梅館地下の「クローバホール」で、毎週開催されているイベントの特別編の位置づけであった。私もそれまで知らなかったのだが、ここでは名画が無料で開催されているそうで、同志社関係者や近隣の方に親しまれているイベントだ。

午後6時半に開会された時には、既に40名くらいが座っていた。開会前に、映画のアンサーソング「Touch the sky」が流されて雰囲気尾盛り上げていた。この歌がいいね。Golden Eggsのブレンダおばさんが歌っているのだけど、彼女を慕うミュージシャンが集まって、歌い上げている。

開会となり、プラスヘッズ代表の臺佳彦さんが挨拶をした。この映画との出会い、映画が発するメッセージなどを心をこめて話していた。

挨拶終了後に、本編の上映が始まった。それなりに広いスペースだったが、終了後には熱気が感じられた。

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上映終了後には、関係者で食事に行った。難民ナウの宗田勝也さん、立命館大生の児玉さん、臺さんとスタッフの井上さんと、私の大好きな居酒屋「赤垣屋」に行って、みっちり話した。特に臺さんのこれまでの活躍の話しは、過酷な仕事の中を抜けながらも、いつも創造的なアイデアが宿っていた。私にはとてもできない仕事を難なくやり遂げる姿に、参加者は非常に感動した。居酒屋の終了時間をはるかに過ぎながら、最後に記念写真を撮って終了した。

京都勢だけで、その後、近くのkansoに行って、缶詰をアテにして、これまでの振り返りと、今後の挑戦についてあれこれ話していた。楽しかったです。宗田さんも児玉さんも非常に感激していて、これを機会にもっと何か考えようと話していました。

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メディフェス最後は、民主党副大臣も登壇した

三日間の会期で開催された「東京メディフェス」は、青山という絶好の立地と、社会的な課題を掲げたアドボカシー団体が集まった特色ある大会となった。私自身は、今回、まったく企画に関わっていなかったので、ひたすら聞き役に回り、気楽に参加できた点で、昨年とは大違いであった。じっくりと楽しませてもらった。

その中でも、今回の目玉は、最終日のセッションで、就任したばかりの民主党副大臣内藤正光議員が参加したことである。これまで政治家の参加は皆無であったメディフェスであったが、副大臣と言ってもこれまでの派閥順送りの役職任命ではなく、これまで中心になってきたメンバーであることが非常に意味があった。

その発言の中で、政府から独立した機関によるメディアの管理を進めることや、公共放送や民間放送とは別に、地域放送を含めた三セクターでの区別というアイデアに言及することが大変有意義であった。セッション終了後には、参加者が副大臣と話そうと殺到したことでも期待の大きさがわかる。

このセッションの模様は、メディフェス公式サイトがアップしている。

以下から、内藤副大臣の講演の様子が見られます。

分科会「コミュニケーションとメディア政策を考える」

さて、どうなるやら注目していきましょう。

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今日から、「東京メディフェス」開幕

一年前には、京都で開催されたメディフェス(正式名称:市民メディア全国交流集会)ですが、今年は渋谷のウィメンズプラザで開催されます。昨年とは違って、より社会的な課題への接近を意識していますが、メディフェスという名称が継承されたようです。名称が継承されるというのは、昨年度の実行委員会のコンセプトがよかったということだと思います。ちょっとうれしい。

私は、昨夜、六館堂でオーナーの柳明菜さんの誕生会、六館堂一周年記念を兼ねたパーティーに参加後、夜行バスで東京にやってきました。ホテルで身繕いをして、会場に出かけます。連休のこの時期は、東京には人が少ないので、ゆったりしています。

メディフェス参加希望の方は、

以下までお問い合わせください。

東京メディフェス実行委員会

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魂の継承

先日、父が亡くなりました。約一年間、どたばたを繰り返してきて、ここに至ったという感じです。母の場合は、一年どころではなく、もっと長かったことでしょう。

父とは長くうまくいかなくて、何かというといつも怒鳴られていた状態が続いたので、こちらからあまり近づかないようにしていましたが、その間に症状が悪化したのだと思う。母は、誰にも言うこともできる、また、今の現実を受け止めるよりも、明日の改善を祈りながら何年も過ごしていました。

ただ、症状が悪化して以後は、母の大けがもあり、私や家族が入ることになったことで、事態がようやく軌道に乗り始めてきました。というと、きれいすぎるのですが、そういうことにしておきます。(家族の写真を載せた日記を載せたのは、その意味があります。)最後は、私と私の家族が看取って、その晩のやるべき事を済ませました。でも、当夜は寝られなかった。異常に体が重かったし、寝ることがこれだけ苦痛だというのも初めてだった。翌日の通夜もそれが続き、その晩はどうなるかと思った。

でも、いろいろ考えてみると、昨夜の体や心の重さは、単なる死に直面したことではなく、父の魂が私の世代に継承されてきたことの重さであることがわかった。私は、魂の重さを知らず知らずのうちに、拒否していたのだった。この魂は確かに重いし、場合によると、憂鬱なことでもある。しかし、それを私の世代が継承しないで誰が引き継ぐのか。重くても、それを受け入れて、次の世代に引き渡すのが我々の世代の仕事ではないか、そう思うと、体のこわばりが一気に抜け落ちた。

葬儀当日は、涙もなく、ひたすら将来に向けて、参列者の方々への感謝と、希望に向けて語った。それは独りよがりだったかもしれない。でも、それが当時の私の気持ちだった。

今を転換点として、新しい人生が始まった気持ちで生きていこうと思う。

ありがとうございます。

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ここまできわめたギャラリー&カフェーがあったんだー多治見・百草(ももぐさ)

五箇山に行く前に、岐阜県多治見市の噂に聞いていたギャラリー&カフェーに立ち寄った。

中央高速道路のインターから降りるのはいいが、目的地までカーナビで行かないと行き着けないようなひなびた山中にある。途中でほぼ行き止まりのような道を我慢して抜けていくと、なにやら陶芸家的な建物が現れた。

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これって、なんかとてもすごそう!

安藤雅信(陶芸作家)と明子夫人(衣服作家)が所有するギャラリー&住居&カフェである。雑木林に囲まれた古民家は、手入れが行き届いている。この建物は、名古屋の築100年の元庄屋兼医院を移築したそうです。

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入り口を入れば、左手がギャラリーで、右手がカフェ。さっそくカフェに入った。奥に机があるのだが、机の端には、犬の頭をかたどった像が生えている!みんなになぜられた犬の頭は、テカテカとしている。

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ここのパンは、直前にふかしてあるので、食べる時には粘っこく、もちもちっとした感覚がとても驚く。東京の有名なパン「ルヴァン」だそうな。ハチミツとバターを塗ったパンは、ヌルおいしい。

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1階ギャラリーには、オーナーの陶器と、服や布が展示販売してある。2階にも服があるが、それ以外に小物が並べられている。

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ここのギャラリーのレベルは、とても高い。

ひなびた感じで、最先端の店としては、トップクラスである。こんなにすごいスペースが多治見にあるなんてびっくりした。

余裕があり、古のデザインにこだわり、かつとてもシンプルな趣味人には好都合の店だ。

追記

ぐらりんさんから、

「多治見市は愛知県ではなく岐阜県です。」

との指摘をいただきました。

頭では間違わないようにと思っていたのですが、

文字で書いてしまいました。

訂正します。

ご指摘ありがとうございます。

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家族写真を富山・五箇山合掌集落民宿「勇助」で

夕方に少し寝て、一息ついた。人生の重みとその継承の時。

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半月前に、家族旅行したが、家族旅行は、実に15年ぶりくらい。その間のそれぞれの歩みをかみしめた。どこに行こうかと相談したら、中部地方に決まり。それぞれに思い出につながる富山・五箇山の合掌造り民宿「勇助」に泊まった。オーナーは、ここが生まれ故郷で、富山で出会った写真家の池端滋さんだ。

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池端さんは、8月12日のブログにも書いたように、私の30〜40年代においては重要な人である。この民家出身でありながら、銀座の写真館などで修行した後、富山に戻って写真展を開いていた。仕事のかたわら、美術展、自主上映会、講演会などでいつも先頭を切って、過激に、また誠実にリードしていたのだった。新聞記事を書く頃から、無性に会いたくなって、五箇山のご実家に初めて行ったのだった。この民宿は、この集落の中でも有名で、秋篠宮や小泉元首相が宿泊したニュースを京都にいてもたびたびテレビで見ていたのだった。

到着してすぐに囲炉裏端での夕食で始まった。実に豪華な夕食だ。元々池端さんは、料理が得意なので、奥さんと二人で工夫して作っている。ずいき、豆腐、ウド、鯉の洗いなどが鮮度と技、そして心意気のごちそうだ。

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二階は、元は蚕を飼っていた場所で、学生の合宿の時には、三十人くらいが楽に泊まれる広さだ。

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われわれが泊まった日は、たまたま他に客がなく、大きな民家と池端さんを独占して過ごした。射水さん、イベント、五箇山の昔、池端さんの若かりし頃など話しは尽きない。その時に、家族写真の話題になり、翌日、撮影をしてもらうことになった。先日、その時の写真ができあがった。考えれば、これまで一度も家族写真を撮ったことがないので貴重な思い出となった。二日酔いの顔しているが、民家の一階での一こま。

写真到着後、さっそくお礼の電話をしたら、ただ今、島根県で撮影しているとのこと。旅行前日には、子供のようにうれしくなって、午前2時に出発して、一気に広島まで来たとのこと。いつまでも好奇心とやんちゃな心を持っている姿がすがすがしい。勇助の檜の風呂でご本人がモデルとなっている。

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白川郷のように、かなり俗化した合掌集落ではなく、いにしえの雰囲気がそのまま残ったまま、生き生きと生活している姿が体験できる。早朝には庄川で冷やされた冷気がもやとなって漂っている姿を見ていると、ここは天上かと思う。

世界からやってくるこの牧歌的な合掌造り民宿には是非行ってほしい。

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新しい旅立ち

これまでは楽しかったね。

これからも楽しいよ。

旅立ちに寄り添いながら

進んでいきますよ。

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最近ラジオ番組をはじめました

メディアと市民の関係をここ数年間様々な取り組みで考えてきた。ポッドキャスティングしかり、ライブストリーミングしかりだ。いずれもメディアの新しい可能性を開くものであるが、よく考えると、私自身がメインになって取り組んではいなかった。そこで、自分でもはじめてみようと思い、先月からラジオ番組のパーソナリティーを務めることになった。

番組名は、「プラスメディア」である。市民活動を支援し、メディア的な要素を盛り込むことで、活動がより豊かになるようにという思いを込めて命名した。

パーソナリティーはまだ慣れないが、ディレクターやプロデューサの助けを借りて、そうそうアシスタントのサポートも得て、はじめています。月二回ラジオカフェで放送されています。

毎回、市民活動をしている方やメディアに関わりのある方をお招きして、20分間の番組を作っている。ゲストの話しを中心にしながら、自らの個性を織り込んでいきたい。

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30歳代には何をしていたのか?ー北日本新聞「越中讃歌」への寄稿ー

前任地の話題はこれまで意識的に避けていたのだが、徐々にわだかまりが取れてきた。過去はいい思い出だけを大切に持ち続けたい。そう考え出してから、いろいろとつながりが出てくる。

昨年、久しぶりに寄ったついでに出会った人との思い出がその後も刻印を残している。そんなきっかけで、地元紙に寄稿することになった。二十年前のことなのでほとんど忘れていたが、断片をつなぎ合わせながら過去をつなげて見た。すると、現在と断絶しているどころか、現在とつながり、また未来へと広がってきた。そんな喜びを記事にしてみた。以下が概要である。

「懐かしい記憶」  

■挑戦続ける先進性

 昨年、八年ぶりに富山を訪れたが、それは、彼(か)の地での思い出と再会する場となった。その場とは、オーバード・ホール館長の杉田欣次さんが私財を投じて開館した「隠し文学館 花ざかりの森」のオープン記念式典だった。そこには懐かしい人がいっぱいいた。杉田さんのほかに伏木・光西寺住職である射水宗昭さん、写真家で五箇山・相倉の民宿オーナー池端滋さん、鱒のすしの「高芳」を営む多賀志郎さんたちだ。

 思い起こせば、富山赴任前に、私は、あることを心に決めていた。富山に行けば、おいしい食べ物やお酒があるに違いない。でも、素晴らしい人間と出会う以上に美味はない。富山ではそういう人を見つけよう、と。そして、事実、そうなったのだった。

 私が地域の人とよく活動していた1980年代半ばから90年代初めの出来事は、ウェブにはほとんど記録が残っていない。そこで、記憶を頼りに当時を振り返ってみる。1986年の赴任早々、大学と地域とのつながりを強めようと、地元の方を授業にお招きした。現在、京都の本山におられる浜黒崎・常楽寺住職の今小路覚真さんが最初のゲストだった。その後、射水さんにも来ていただいた。そうこうしているうちに、市内で展開するさまざまなイベントにかかわるようになっていった。

 この時期、富山駅前の有名な「真酒亭」が出した本「現代異人譚(たん) みゃあらくもん」の書評を本紙で書かせていただいた。当時、映画「少年時代」の撮影準備がおこなわれていたが、鯉淵優プロデューサーが真酒亭に偶然寄って、そこに貼(は)ってあった私の書評を見たそうだ。映画の子役探しでいろいろと相談に乗っていた時にそう語っていた。

 ■極めて斬新

 89年には「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」にかかわった。この美術展は、南アフリカの人種差別政策に抗議したアーティストたちがユネスコに作品を寄付して、それが世界中を巡回していたのである。私は富山実行委員会事務局長となった。努力の甲斐(かい)あって、わずか一週間の会期にもかかわらず、三千人もの参加者を記録した。

 この美術展のシンボルであった作品輸送トラック「ゆりあ・ぺむぺる号」が赤い大きなバルーンを掲げて停車している姿は大きく報道されたものだった。予想以上に集まったイベント収益を市民に還元しようと、映画上映や講演会などを次々と開催していった。90年には、在外研究の機会を得て、欧米数カ国を移動しながら研究していた。本紙で「ふだん着の米欧見聞録」という連載記事を担当し、市民視点のホットな海外情報を送っていた。

 翌年に帰国したが、その後の大きなイベントは、92年「エキスポとやま博」(JET)のFMピーチであった。エキスポ会場内のどこからでも見える仮設スタジオを「見えるラジオ」と呼んだ。そして、その企画コンセプトが当時としては極めて斬新だった。ラジオは聞くもの、という当時の常識を破って、市民がどんどんラジオに出演したのである。これは、今から考えると、その後の市民メディアのさきがけであったといえる。

 この年、本紙の紙面批評を一年間担当させていただいたのだが、それ以後、私は、本務に忙殺されることになる。やがて地域との関係も薄れ、2001年の京都転勤によって、ますます疎遠になってしまった。もちろん、93年、富山大学に言語表現科目を新設して本紙の編集委員や他のメディア関係者と一緒に授業を作ったことは、その後、全国のモデルとなったのであるが、これとて本務の一環であった。

 ■富山にルーツ

 ところが昨年、「花ざかりの森」の式典でかつての知り合いと出会って、過去と現在とが一気につながった。

 私は、現在、スーダン難民問題を扱ったオランダ映画「Sing for Darfur」の試写会を京都の十大学で開催したり、京都三条ラジオカフェというNPO放送局でラジオ番組を作っている。「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」のプロデューサーであった北川フラムさんは、数年前から本学客員教授となった。彼は、富山の参加者の多さに驚いていたのだった。

 これら現在のいずれもが二十年近く前の富山にルーツがあったのである。富山は決して伝統だけに生きているのではなく、先進性をも兼ね備えている。それに気づかせてくれたのが、多くのイベントをリードしてきた射水さんと話している時であった。ところが、残念なことに、昨年、彼は早すぎる死を迎えた。この時には、彼を慕う多くの友人が集まったという。

 友人たちはその後も挑戦を続けている。けれども、その挑戦の成否は次の世代へと橋渡しされるかどうかである。まだまだ休むわけにはいかない。今度は、未来への夢の架け橋を作りましょう。また、相談に行きます!

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