前回の投稿で「骨折した」話を書いたら、多くの方から励ましのメッセージをいただいたり、サイトへのアクセスをしていただいた。
ギブスはつけたままだが、少しずつ歩けるようになったので、生活ははるかに楽になった。こういう境遇にいると、弱者の置かれた立場に少し近づいた気がする。回復しても、この気持ちを思い出せるようにしたい。
動きづらいと読書が楽しみになる。もちろん、もっと楽しみは睡眠なので、昼な夕なとうたた寝ばかりしている。それでも疲れが取れないのはなんだろう。陰山英男さんによると、睡眠時間8時間の生徒が一番成績がよく、10時間になると成績が低下するそうで、私の頭も今は集中力が欠けた状態だ。
陰山さんとのシンポジウム終盤に私は、社会の二極化にどう教育が向き合うのか。現在の情勢は、二極の「上」に重点がいっており、「下」への視点が欠落している、と述べた。この時の発言以後、格差問題は気になっている。三浦展『下流社会』、本田由紀『「ニート」って言うな!』、速水由紀子『「つながり」という危ない快楽』を読んだ。
三浦は、下流社会に生きる人々の常識と異なるイメージを映し出し、本田は、ニート概念は誇張されており実像を反映していないと述べている。速水は、二極化という単純な分け方を批判し、代わりに「グローバル・コミュニティ」「ローカル・コミュニティ」「オタク・コミュニティ」「脱コミュニティ」「非コミュニティ」と五分類している。これらは、それぞれ海外留学エリート、SNSやサッカーサポーターなどの一般の人々、オタク文化に浸りきる人々、引きこもりなどの社会とのつながりを拒否する人々、ホームレスや日雇い外国人などの排除された人々に対応する。
この分類は、40歳台までならばわかるが、それ以上の世代をこれに分類するのは無理があると思うし、五分類にかかわらず、実際にはグローバル・コミュニティとそれ以外の二極、特にそれ以外のコミュニティを四分割しているのと変わらない。
けれども、私がおもしろかったのは、これらの異なるコミュニティの分極化をどのように防ぐかという視点である。いずれかのコミュニティに属しながらも、それを超えた視点を持つ人材の必要性を訴えていることである。分節化したコミュニティをどのように「つなぐ」のか。それはSNSやサッカーの中での「つながり」ではなく、コミュニティを超えた視点である。「上」の極に全面的に帰依することでも、また自らの内に籠もることでもない第三の道だ。それはかなり難しい道である。しかし、そこにこそ未来があるとすれば、それを示す動きをさらに分析する必要がある。今は、そうした実践例を丁寧に拾い上げながら、一歩前を照らす時期なんだろうと思う。