先日、社会メディア学科一年生必修授業「社会メディア論」で授業を担当した。この授業は、学科教員が順番に担当することになっている。私に与えられた課題は、「メディアと暴力を関連させること。」「ただし、メディアの中の暴力とというメディア論的な話はだめ。さらに、筒井の専門の国際関係論でいう国家とメディアの関係もだめ」というだめだめづくりしのお題が与えられた。加えて、「メディアの暗い面だけでなく、明るい面も言ってください」という要望もあった。
正直言って、こうした要望をすべていれた話ができるのだろうかと戸惑った。何度かアイデアを出したら、すべてボツ。「もっと明るめに」とか、「もっとメディア論的でなく」と言われて、つくづく困った。悩んだあげく、今ではもうやめてしまった、平和研究の概念である「構造的暴力」という概念を借りてきて、物理的な暴力だけでなく、目に見えない、地球的な諸問題を扱うメディアの事例にして議論した。
これはたいそう気に入られて、ようやく授業シラバスができあがった。しかし、構造的暴力を国家側から主題にした映像を探そうとすると、かなり困った。いわゆる、政府機関の広報映像なのだが、これを探すのはかなり難渋した。かつては、批判の強かったODAについても、政府は既にNGOと協力して取り組んでいるので、映像資料もNGO寄りの作品ばかり。あれこれさがしたあげく、同僚が持っていた動燃「現原子力研究開発機構」のプロトニウムは安全だ!、というキャンペーン映像が見つかった。
実は、当日まで忘れていたのだが、メディアの可能性ということで、市民メディアの映像を最後に入れる予定にしていたので、授業直前にあたふたとして、ブラジル・ポルトアレグレ市で2005年に開催された映像を最後に流して結論に持って行った。この映像は、小山師人さんが撮影された映像で、開会前の華やかなパレードの模様、ブラジル大統領の開会式での演説の他、スタンフォード大学のローレンス・レッシング教授による見事なプレゼンなど見応えのある映像だった。
ともあれ、以下に授業シラバスを転載する。映像資料などは、残念ながらアップできない。
メディアは、グローバルな暴力を助長しつつ、
われわれの未来も開く
筒井 洋一
キーワード:構造的暴力、第三世界、国家、市民、発信
1.メディアは、グローバルな暴力を助長する
日本は、平和だといわれる。この場合の平和とは、日本では「戦争がない状態」とである。しかし、日本では、戦争がなくても、いじめ、自殺、ワーキングプアなどのわれわれの身近なところでは深刻な現象が多発している。
また、日本では戦争がなくても、第三世界などでは、戦争や暴力事件が多発し、飢餓、貧困、人権侵害、疫病などが日常的におこっている。
こうした日本における社会現象や第三世界における問題を前にして、「日本は平和でよかったなあ」で済まされない。つまり、これら地球のあちこちで起こっている現象は、それぞれが別々の動きでなく、相互につながっているのである。それらは地球の各地では異なる形を取っているが、地球全体で様々な形を取っている暴力であると考えられる。こうした戦争などの物理的な暴力だけでなく、地球的な暴力を含めて、「構造的暴力」と呼ぶ。
2.メディアは、国家に奉仕する
マス・メディア
不特定多数に対して、一方向的に情報を伝える機能。それを運営するためには、技術的資金的人的なリソースが不可欠。
誰がリソースを可能にするか
社会の中の大きな組織が自己の影響力を不特定多数に与えるため
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国家
国家は、自らの統治を正当づけるための広報機関としてメディアを利用した
3.しかし、メディアは、市民にも広がった
近代を迎えて、市民自身が政治に本格的に関わってきたことで、市民自身もメディアを活用する必要が出てきた
フランス革命、労働運動、市民運動でのビラ
↓
市民の主張をより多くの市民に知らせたい。それによって政治的影響力を拡げたい。
↓
新聞、ラジオ、映画、演劇などを通じた政治的活動
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1990年代半ば以後、インターネットやビデオカメラなどの低価格化、簡便化、小型化などが市民のメディア活用が広まる
4.メディアは、われわれの未来を開くものとなった
NGO/NPO、市民の活動において、メディアによる発信は、市民やNPO/NGO 自身の活動を広める点で大きな役割を担う。
もちろん、メディアは必ずしも政治的社会的な活動にだけ関わるのではなく、われわれの日常生活を表現する手段としても役に立つ。
メディアは、当初、国家支配を正当化するために、国家による暴力を引き起こすこともあったが、市民の政治意識が高まり、またメディア機器が身近になるにしたがって、同時に暴力を防ぐ有益な道具ともなった。