過日、イラクに滞在する友人(民間人)からメールをいただいた。
治安の乱れが続くイラクで、人々が自分とその周辺を守るのが精一杯、というやるせない現状を短い言葉の中で印象的に伝えてくれた。
日本にいる時のその友人は、仕事に対してはとても厳しいが、それ以外ではとても丁寧で優しい表情を絶やさない。イラクでもきっと同じなのだろ思うが、それにしてもあまりにも過酷な状況に飛び込む勇気には敬服する。(子供の頃には、同じように海外ジャーナリストを職業にしようと思っていた私だが、結局、夢で終わった。)
ただ、そうしたメールをいただいた私の方は、正直言って戸惑った。
もちろん、メールをいただいたのは大変うれしかったのだが、彼我の環境の違い、そして私が安逸な環境にいることへの申し訳なさを感じて、しばらく返事ができなかった。しかし、それを知りつつもメールを送ってくれた友人に対して、お礼の返信を送ることで少しでも心が安まるとすればありがたいと思い、数日後に返信した。
だが、心の収まりはよくなかった。ここ10年間、風邪を引かないよう養生していた私だが、今年は咳が二週間止まらなかった体調の悪さも作用していたのだろう。
そこで、学内の仕事もきりがついて少し落ち着いたところで考えた。もし私が友人に対して負い目を感じてそれを克服したいと思うのであれば、それは自分自身の仕事で返すことしかない、と。よく考えれば、私が負い目を感じるかどうかとは無関係に、友人はたくましく仕事しているであろうし、それをイメージしながら、私は私の仕事に精力を向けることが唯一の道だろう。そして、元気に帰った来た友人と再会して、その活躍を聞く時には、私は充実した仕事をしていたい。
そう思い出すと、ようやく前に進み出した。
たとえ、私が不勉強な学生をしかりつけても、学者としての私が不勉強であればその怒りにはどういう意味があるのか。あるいは、私が社会の不正や腐敗を嘆いてみても、学者として不勉強であればどういう申し訳が立つのか。
日本語表現という新しい分野に関わって10年以上が経った。現在、その総括と共に、今後の方向性についての議論が始まりだしている。常に先端にいることが私の役目だと思うが、近頃、その役目を忘れていた。
戦場からの手紙を受け取った私は、友の事を考えながらも、その友を迎える私自身を喚起することへと行き着いた。
改めて友に感謝したい。