このブログは先月終わりから更新していなかった。理由は、学内行事や昨日までの研究出張が重なったことと、ブログに書いたことが先方にご迷惑がかかったことから慎重になったことがある。
このブログは、自らの活動と教育・研究との関連を振り返りたいために書いているが、そのことが他人の迷惑にならないようにしないといけない。
ブログのメリットは、htmlスクリプトやサーバへのアップなしにコンテンツの充実に専心できるために、気楽に書けることである。しかし、気軽に書いても内容に対する責任は変わらない。そのことを肝に銘じたい。
複数の旧国立大学の関係者と会う機会が何度かあり、独立法人化後の変化についていろいろと話を聞いた。独法化によって、各大学の自由裁量が拡大した一方で、依然として文部科学省の統制が続いている中で、教職員の疲弊が激しくなっていることは誰もが語る。
けれども、紙面に表れる独法化後の旧国立大学のニュースと言えば、新しい組織の設置や新しい取り組みが始まっているという、明るい面を取り上げる記事がほとんどである。確かにこうした変化を取り上げることは間違っていない。けれども、現場の教員が、この変化に表れない沈滞した状況であることが紙面に載ることが少ない。
たしかにその背後には、守旧的な姿勢があることは否定できないが、それだけではない。私自身は、大学改革を実践し、また他大学にもアドバイスをしている立場であるので、これまでと異なる新しい取り組みを支援したいと思っている。ただ、その支援の向く先は、まずもって現場の教職員に向いている。彼らが前向きに動き出してはじめて変化が本物となるからである。
その意味で、旧国立大学の現場は、決して楽観できない。ノルマの多さ、雑務の煩雑さ、文科省の規制などでそのしわ寄せは、現場で積極的に取り組む教職員に過重な負担がかかっている。かれらを勇気づけるためには、彼らが草の根で取り組んできた個別の改革の芽を正当に評価してあげることだろう。その努力が同僚や幹部に評価されることで彼らの心の安寧がどれだけ得られることか。
ここ数年、旧国立大学では、半期15週の講義を厳守するようにということで、これまで規定以上に少なかった講義を規定通りに戻そうという流れになっている。しかし、その結果、前期の講義終了が8月初めになっていることもあるという。私学よりも遅くまで講義をしている。
もっとも、4月の開講時期を早めたり、祝日の開講などを工夫すればここまで遅くなることはないはずであるが、これができないのだ。こうした動きの悪さがいかにも旧国立大学らしい。しかし、こうしたことを工夫する知恵を身につけてほしいと思う。
もちろん、旧国立大学の弱さは、私立大学でも多少とも抱えているにせよ、私学の場合には、もっと別の課題がある。経営母体が違っていて、その現象面は異なっていようとも、教育と研究を中心にした大学が社会とどう向き合うのかという戦略は変わらない。教育も研究も社会との関係も、これまでとは異なる対応が求められている。しかし、現場の教職員と学生の意欲を高めることを目標に据えた地道な取り組みが必要なのだろう。