紹介があって、大学における日本語表現法の実践について、高等学校国語教員の研究会で報告した。
高校教員の前で話すことと同時に、国語教員に対してこの科目の報告をするのはかなり勇気がいる。というのも、この科目は、伝統的な国語教育とは異なる実践をめざして出発したからだ。
報告内容は、以下である。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/tsutsui/reports/kokugo/kokugo.htm
参加者の反応は、高校での国語教育の実践との相違に愕然としたという方もおられたようだ。
私が意図的に「この科目の創設にあたっては、美しい日本語を目的とする国語学や国文学の教員からの反対があった」と述べたことで、「こうしたシステマティックな講義内容では、国語学者が反発するのも当然だ」という反応もあった。
これに対して、私は、「この科目が専門科目ではなく、基礎教育であり、この科目担当者は理科系教員も含めて多様であるので、それぞれの担当者の独自の色合いはむしろ割愛している。しかし、実際の講義では、全員が同内容の講義内容を教える部分と、担当者の自由裁量の部分の双方があり、コンテンツも教えられる」と答えた。同様の疑念は、国語教員に限らず、多くの教員が抱く内容であったので、当然予想していたが、予想以上に反発が強いことを見て、あらためて国語教育と日本語表現との橋渡しの難しさを痛感した。
(後から気づいたことであるが、高校と大学(特に、私立大学)の科目に対する区別の違いがあることがわかった。つまり、高校では科目毎に専門が分かれており、国語と社会、理科、英語などの区別を超えることはほぼ無理である。このことは、科目毎に既得権が守られているを意味する。医者や弁護士と同様の職業独占が認められている。
しかし、私立大学の場合には、ある程度の独占は認められているが、今日のご時世では、それも絶対的なものではなく、場合によれば他分野に移る可能性がある。たとえば、ドイツ語を教えると同時に、情報処理科目を担当するという公募も存在しているように。つまり、職業独占が守られていないのだ。こうした置かれた環境の違いは大きいようだ。)
もっとも、参加された教員は、自ら教育実践を実行されているのであって、実践の意義自体は共通している。それぞれの実践報告を一瞥しただけでも、かなり熱意を持って教育されていることがわかった。
しかし、私が言いたいのは、教員の個人的実践を増やすだけでは不十分で、むしろそれらを教育カリキュラムの中でシステムとして組み込む必要性である。同じ講義であっても、担当者毎に講義内容のコア部分と評価基準が異なっているのでは、学生側の満足が得られないからだ。
その意味では、高校だけでなく、多くの大学の講義においてもこうしたシステム作りまで至っている例は少ない。しかし、今後もそうした視点が重要になるはずだ。私の仕事は、このことをよりわかりやすく説明することであると思っている。
国語教育の本丸に突入した成果がどこまであったのかはわからないが、こうした対話を続けて共通点を見つけていくことである。