ただいま三月に出版する単著の最終校正をしている。
既に、初校、再校と進んでいるので、ほとんど直すことはない。もちろん、大幅に直すとすれば、根本的にやり直さないといけないので、この段階ではもはやできない。これまで書いた論文をできるだけそのままにするという趣旨から、最小限の修正に留めた。
この本によって、「10年間の日本語表現法の歴史的な意義」を知っていただければありがたい。
93年に富山大学で言語表現科目が新設されたことは、当時の国立大学ではほぼ唯一であった。私はその発案者として、科目担当者代表を務めながら、講義も担当した。精華大に移ってからは、持ち講義がないのであるが、それでも他の研究者や実践家と研鑽を積んでいる。
科目新設当時には、反対する人はよく陰口をたたいた。私が少しでもミスのある文章を書いたり、発言が不鮮明であったりすると、すかさず「言語表現科目の代表者の文章にしては稚拙だ。」「学生に教えるよりも、あなた自身が言語表現を勉強しろ」と言った悪口が飛んだ。
私はこれにはあまり反論しなかった。ただ、「○○先生のような文章やお話しが早くできるようにがんばります」と嫌みを言う程度だ。
本当に、言葉上でのいがみ合いは、実際にはあまり意味がない。それよりも、この科目の実績を作ることと、私自身の表現力を高めることで反論しようとしたのである。
前者は、学生の授業評価アンケートでも他科目に比べて圧倒的に評価が高く、また毎年教科報告書が出版されたことで、誰の目にも実績が明らかになった。後者は、私の稚拙な文章や話しを少しずつましにしようとした。
他人から批判されることは自分の能力を高める。現在の私の文章や話しがどこまでいいかは他人の判断に任せるにしても、以前と比べたら少しはましになった気がする。それと、確実に進歩したと思うのは、文章や原稿のまとめかたが早くなったことだ。論文を書き始めたら、かなり早く完成することができるようになった。
これが一番ありがたいことだ。
批判をされても、まず先駆的な試みをすることで、自分を伸ばすことができる。実は、言語表現科目や日本語表現法に関わっているのは、学生の表現力を伸ばすという建前よりも、自分の表現力を伸ばすという実質的な目的があったのだ。
「学生が学ぶ前に、まず教師や学者が学ぶこと。」
これが教育であり、研究に携わる上で忘れてはならないことだ。