【はじめての哲学カフェ】


イベント告知ではなく、私が哲学カフェに参加したのが2007~8年頃でした。本日、主催者と出会った当時を思い出しました。


「哲学カフェ」流行の最近とは違って、私を含めて、「それはなに?」という感じでした
主催者がなぜ開催したのかを尋ねたところ、知り合いから頼まれたので、5年間やったとのこと。


話し合いのルールを説明後、問題提起者として私が出たのだが何を話したのかはまったく覚えてなかった。ほとんどの参加者は、6,70歳代なので、私がゲストで話すときに資料を渡すとそちらに注意が移りそうだった。そこで、準備資料は、終了後渡すことにした、参加者に聞いて頂き、その後、質疑応答をおこなった。


その後、3名グループに分かれて話し合ってもらう問をゲストの私から出したのだが、たぶん、「自分の宝物は何か?」だったと思う。
でも、このカフェで重要なのは私の話でもなく、問いでもなく、グループに分かれた時の参加者の話しにあった。


ゲストの私も入って三名グループを作ったのだが、私以外は60歳代後半の女性と、70歳代の男性だった。彼らの話がとんでもなく面白かった。


60歳代後半の女性の宝物は、東京の大学生時代の本だった。学生時代に、いろいろの大学の学生が集まって、読書会をしていたとのこと。じっくり話し合って、次回は、ボーボワールの『第二の性』にすることを決めた後、自分が通っていた日仏会館にたまたま寄ってみたところ、黒山の人垣ができていた。そこをかき分けて、建物に近寄ると、なんとボーボワール本人がそこにいた。あまりの感激に、自分が持っていたボーボワールの著書に、習っていたフランス語でサインをお願いして書いたもらった。その本が彼女にとっての宝物とのことだった。たまたま持っていたボーボワールの本に、たまたま寄った日仏会館でサインをもらえたことが今でも残っているという歴史を感じさせた。

70歳代の男性はいかにも職人出の木訥(ぼくとつ)な方だった。彼は戦争中の学徒動員の話をしてくれた。

確か小学校か中学校の頃、空襲に被害を押さえるために、1944年7月から、京都市内では住居の強制疎開が行われた。男性が住んでいた堀川通り沿いの店&住居も強制立ち退きとなった。なんとか近くの知り合い宅に間借りできたそうで、その後、学徒動員で愛知県知多半島の零戦の工場で働いていたとのこと。

12月7日に、愛知・静岡・三重県を襲った東南海地震に遭遇したとのこと。当時の報道管制で地震の被害も知らされず、現地への救援も行われなかった。この男性も工場で被災し、がれきの下になって動けない状態だった。しかも、誰も助けに来ないので、なんとかしてはいだして、何里も離れた寮まで自力で戻ったとのこと。

男性の話を聞いて、以前聞いていた戦争中の地震の被災者で、生き残りが面前にいることに大きな衝撃を受けた。この男性はまさに歴史の生き証人だった。

これらの女性も男性も、自分にとっては重要な記憶であっても、私が問わなければ、わざわざ他人に話す必要もないと思っていた。本人にとってはそこまで重要と思わなくても、他の人から見ると実に重要な話しだった。

正直言うと、哲学カフェは大したことないと思っていたが、年輩の方々がてらいもなく重要な話しを話された様子を見て、自分を恥じた。20年そこそこの人生を生きた若者とは異なる、実に深い人生を聞けた体験だった。

こういった場を創ることによって初めて出てくる偶発性は侮れないと思う。哲学カフェは昨今流行だが、私がこんなに早く体験していたことに驚いた。同時に、今の時代だからこそ哲学カフェは重要になってきたのである。

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