後期期末試験、入試と続く中で、提出された卒論の中で優秀論文を選ぶ作業をした。
私はこの大学でははじめての卒論を担当することになったのだが、多くの卒論はわれわれの時代同様、お世辞にも学術的にも意味がある作品は少ない。けれども、推薦されてきた卒論の中で優秀な作品を選定する作業は素晴らしく楽しかった。選考委員の評価も完全に一致した。
最終的には三つの作品が残ったが、そのうちの二作品は自らのことをさらけ出すという内容であった。さらけ出すというと、感情的な表現が多用されているように思えるが、むしろいずれの作品も感情が抑えられている。しかし、抑えられた感情とはうらはらに内容は衝撃的だ。
一つは、自らの病と向きあいながら、それを語る学術文献をフォローしつつ、自らの病と趣味とを重ね合わせて、最後に自らの体験を語った。もう一つは、十年以上もの間、同人誌の世界に棲む若者の世界を冷静な筆致で語る。
いずれの作品も冷静さとは裏腹に、あまりの独特の世界であるがために、ためらいながら読んだ。しかし、いったん読み出したら著者の筆致から逃れることはできず、一気に読んでしまう。その世界を描く筆致は重すぎず、かといって軽すぎることもない。
作品はまもなく卒論集の巻頭に収められるので、詳細はそれまでお待ち頂くことにしても、選考委員の中で一致したのは、体験の強さである。卒論というきわめてアカデミックな作業においては、学術文献を読み込む作業が不可欠になり、先行研究に対する分析をすすめた後、結論的に筆者の知見を提起するという形式を踏む。その場合のテーマや対象は自らと離れたものとなる場合が多い。
しかし、そうした作業の重要性は否定しないが、読者に対して挑みかかってくる作品はそれではなかった。これは先行研究の分析という作業よりも、自身の体験を語る方が一歩先んじていることを意味している。
体験が学問を凌駕する、ということである。
体験がすべてだとは言わない。しかし、ここでの筆者の語りは体験、あるいは当事者でなければ語れない内容であった。これらの文献は、それぞれに分野において先駆的な体験報告として強烈な刻印を残すことになるであろう。この大学の学生もあなどれない才能を持っていることを痛感した。