喪中ですが、今年もよろしくお願い申し上げます。
数年前から賀状を送っていなかったので、送られてくる賀状もかなり減ってきたし、今年の喪中でさらに減るだろう。もちろん、その反面、メールでの挨拶はかなり増えてきた。メールだと返信が容易なので、新年早々につながりが深まるメリットがある。
元旦にさっそく墓参りしてきました、タクシーで出かけたのですが、寒かった。でも、元旦からお参りに来られる方とも出会い、みなさんの温かい気持ちに触れた気がした。
さて、今年の抱負を書く以前に、昨年の振り返りをしたい。
- 1月
父が転院して、新しい生活を始めたが、以前とまったく違って、リハビリにも対人関係においても、実に積極的になった。これまでになかったような笑顔をいつも振りまき、歩行訓練、漢字テスト、音楽、習字などにもいつも関わり始めた。転院して一番の懸念がなくなったのが大きい。病院関係者に感謝。半ばに、学科講演会にリクルートエージェント・フェローの海老原嗣生さんに来ていただいた。マンガで連絡され、単行本化されていた『エンゼルバンク』のモデルだが、とても気さくで、精華大のリラックスした部分ととても相性がよさそうだ。彼にも企業関係者を呼んでいただいて、就職課主催の東京イベント「北山からの熱い風」に初参加した。100名以上の企業関係者が集まり、学生もとても熱心にプレゼンしていたのが印象的だった。コンピュータ教育の学会であるCIEC副会長を務めてから、大会準備や会議で出張が増えてきた。
- 2月
橋本久仁彦さんのミニカウンセリングに参加し、かぜのすけさんと一緒に15分間のミニカン初体験。これまで難点だった、聴くことがこの時は嘘のように解消し、まさに彼女の側で話しを聴いていることができた。これは感激だった。金沢での地方入試監督に行き、北陸も心理的にかなり近くなった気がした。向こうはどうあれ、こちらは忘却へ。
- 3月
毎月、ラジオカフェで開催している、京都メディアフォーラム例会で、NHK経営委員の野間光輪子さんに来ていただいたことは非常に大きな転機だった。メディアと市民を考える具体的な素材が京都で生まれたのだった。玉利康延さんがいよいよ京都に拠点を構えるとのことで、訪問した。彼のセンスの良さと思想とが重なり合いながら展開していく活動がとても興味深い。公立高校の授業で、「自己表現力セミナー」が終わった。これまで数年間準備してきた授業だが、無事終了した。学生ボランティアと高校教員のレベルの高さが成功の秘訣だった。
- 4月
実家に戻ることを決意し、改装を始める。いよいよばたばたしてきた。新年度が始まると毎年待ち望んでいる『自己表現力の教室』の増刷が17刷りを記録した。これで5万部達成した。9年目の快挙だ。続いて、龍谷大学松浦さと子さんプロデュースの助成金報告書「コミュニティー放送における市民の情報発信支援」が発刊された。市民メディアの現状を京都を事例に取り上げた。また、東北大学出版会から「大学における「学びの転換」と言語・思考・表現」も発刊された。私は、第一報告をおこなった。『ヒューマンスキル教育研究』という雑誌に、「ゲスト・スピーカーの体験談から何を学び取るか」を執筆した。これはかなり評判が良かった。大阪上町台地のまちづくり集団が編纂した『地域を活かすつながりのデザイン』にも一章執筆した。
- 5月
学内での新しい取り組みとして、ワークショップ科目の授業の多くで、受講生自身が書いたブログがスタートした。十数科目の授業でブログが一気にスタートしたのは、受講生とともに、サポートスタッフのおかげである。授業プロセス自身を見せることで、大学教育への関心を高めたい。連休中に引越を済ませて、いよいよ同居生活が始まった。それは順調にスタートしたのだが、父の転院先が突然決まることになり、その対応に追われた。ヒヤヒヤの転院だった。ITライターの大谷和利さんと連休中にあったが、コンピュータだけでなく、ガジェットなどへのこだわりを間近で見ることが出来た。
- 6月
大学教育学会でラウンドテーブルを主催し、個人発表した。ラウンドテーブルでは、二年目になった「授業方法としてのワークショップ」の中で、授業のフレームワークについてファシリテーションの手法を使って参加者と学んでいった。個人発表は、公立高校の実践を高校教員と一緒に発表したが、これが実にすごい反響があった。元都立高校校長先生が「大学の先生が無償でこんなことを手伝ってくれるなんて考えられない」と言って褒めてくれた。司会者の学会重鎮も驚いていた。今年度のインターンシップも始まった。昨年以上にインテリジェンスオフィスを希望する学生が多いのがうれしかった。精華大の授業に湘南乃風の若旦那がゲストで登場してくれた。音楽の話しがメインではなく、彼自身が取り組んでいる子供の難病支援活動が中心だった。終了後は、受講生と一緒にバーベキューで乾杯した。ロボットコミュニケーションズの井上邦彦さんから電話があり、「Sing for Darfur」関西の大学先行上映会への協力依頼をされたので、引き受けた。これが面白い展開をすることになる。
- 7月
「Sing for Darfur」配給元プラスヘッズにも訪問し、先方の意欲を確認して、よけいにやる気になる。精華大を皮切りに、京都外大、龍谷大、京大、阪大などで次々と上映会を開催した。各大学の上映実行委員会に集まった学生が実に才能があり、魅力的なタイプなのがうれしかった。いいコンテンツにはいい人財が集まると言うことだろう。
- 8月
生まれて初めてラジオパーソナリティーを務める。うまいとは言えないが、回を重ねる毎に楽しくなってくるのがよかった。愛媛大学でPCカンファレンスが開催された。副会長として準備してきた一つの山がやってきた。個人発表「SNSを活用した産学連携授業の実践と成果」をしたのだが、実に評判だった。何十年振りかの家族旅行をする。多治見のギャラリー「百草」と富山五箇山の民宿「勇助」に行った。オーナーとは以前からの知りあいだったが、友情を暖めた。実は、私のブログを読んで、インテリジェンスオフィスの社員さんも勇助に泊まったことを知る。彼も学生時代に紹介されて泊まって以来、二度目だったそうな。不思議な縁だった。この民宿のオーナーも含めたかつてのつながりを北日本新聞「越中讃歌」に「懐かしい記憶」と題して書いた。みなさんよく読んでくれていたようです。
- 9月
最後の病院ではかなり衰弱していた父がなくなった。父の遺言に従ってその後のことを進めていくことにした。恐怖、恐れ、不安がない交ぜになったままで進めたが、徐々に進んでいくことができた。父の介護から解放された安堵もあっただろう。東京メディフェスにも行った。昨年の京都とは違って、焦点を絞った企画がよかったと思う。
- 10月
上映会は、六館堂、立命館、同志社大、京産大と続く。夏休み終盤から、広告表現技法の授業では、コカコーラ協賛の「いろはす・エコ・イベント」に加わることになった。ペットボトルを握りつぶしたものを素材にして、象やゴリラを作った。それらが東京国際映画祭のオープニング会場に展示され多数の注目の的になった。その後、上野動物園にも展示されることになった。また、前期最後の授業終了後に偶然に生まれた谷中せんべいプロジェクトから、受講生がhcubeにインターンに行き、谷中と京都の大学生との取り組みに参加することになった。京都で開催されたNHK経営委員と語る会に参加したが、そこでも野間さんが大活躍をされたのを見た。彼女の厳しい視線と暖かい眼差しとが参加者の好感を呼び、議事進行においても斬新な試みをして大成功となった。
- 11月
ある府下の府立高校で、高校一年生向けのキャリア選択の授業を実践した。ファシリテーションの手法を使って、生徒に自らの希望と大学や社会との結びつきを考えてもらった。最後は全員で大声で叫んだ。終了後、好感を持ってくれた生徒がわざわざ話しに来てくれた。もっと大学に結びつけてあげよう。月刊「日本語」に「初年次教育における日本語表現法」という記事を書いた。この文章の勢いに押されて研究会にやって来た学者もいたそうで、光栄の至りだった。
- 12月
卒論の締め切り後には教員は恐ろしい労働を強いられる。この月一杯は本当に息が切れそうだった。高大連携教育フォーラム表現部会のコーディネーターを務めており、講師との打合せや当日にファシリテーションの手法を導入する実験をした。フューチャーサーチの研修会準備に関わり、香取一昭さんや大川恒さんと知りあい、主催者のHome’s viの嘉村さんたちとも接点を持つことが出来た。時間と場を要するワークショップなので、会場が抜群だったようだ。これをきっかけにワールドカフェの組織ともつながった。「クリエイティブの可能性」の授業では、宝酒造さんとの共同プロジェクトをおこなったが、受講生のレベルの高さと熱意が会社を動かしたのだった。父の遺骨を納める納骨式を済ませた。これで一息つける。昨年から活動を始めた「まちづくり100人委員会」から生まれた「京都わかもの100人委員会」の設立総会を開催した。当初、参加者が極端に少ないことが危ぶまれたが、主催者の人脈の広さが幸いして、盛況となった。彼らの周りには、実に能力と意欲の高い若者がたくさんいる。インターンシップ受け入れ先の忘年会に招待されたのだが、インターン生が就活のために参加者が極端に少なく残念だった。直接の責任は学生にあるのだが、より広く見ると、今の異常な就活事情がある。歯車を元に戻すことを考えないと大変なことになる。最後の最後まで忙しかった。なんとか年を越せたことで安堵する。二年前の山形国際ドキュメンタリー祭で河原上映会をした杉作、ちひろにも会ったな。彼ら二人が年末に一緒に登場したイベントがあった。ちひろちゃんはその直前まで3ヶ月間韓国を歩き回っていたグループを撮影していたのだった。帰国後直ぐに電話があり、このイベントのことを教えてくれた。楽しかったつながりはその後も続く。