Indy Mediaと市民メディア

腰が軽いのが私の特徴だと思っている。自分自身の頭で思考することは当然にしても、社会の動きから得るものはもっと大きい。

ラジオカフェのイベントを通じて、コミュニティーFM,ケーブルテレビ、メディア関係者、研究者などの広がりを実感している。ただ、こうした「小さなメディア」の動きをどう呼称するかはなかなか難しい。

米国では、これらを総称してAlternative Mediaと呼ぶが、オルタナティブ・メディアと日本語で言ってもピンと来ない。そこでどうしようかと思案している。三月にNPO学会で、FMわぃわぃ、工房AKAME、ラジオカフェの代表の方に来ていただいた時に、呼称で悩んだ。そこで、松浦さと子さんと相談して、「市民メディアにしよう。ただし、シンポジウムの時間の都合もあるので、呼称についての意見交換はしない」と決めた。終了後、パネリストの方々にお尋ねしたが、必ずしも市民メディアでいいという合意はできなかった。

9月に熊本で行われる大会は、「市民メディア」という呼称を使っているが、同様に呼称自体の当否の議論はしないだろう。「そんなこと、どうでもいいばい」ということになるのだろう。より納得できる別の呼称がないだろうから。

ただ、米国の影響をまともに受けた、別の「小さなメディア」の活動も始まっていた。それは、1999年11月末にシアトルで開かれたWTOの会議に対して猛烈な反対デモを取材したフリー・ジャーナリスト、ネットワーカーなどの電子メディアを駆使したジャーナリストや運動家の活動である。「小さなメディア」団体がホテルにコンピュータ、カメラ、電話などを持ち込んで拠点にし、ライブエンコーディングには、地元企業やリアル・ネットワークスも協力して、マスメディアと異なる抗議運動の姿を世界中に発信した。かれらのことをIndy Media(独立メディア)と呼んでいる。

先日、かれらの企画に参加したときに、中心メンバーに呼称について聞いてみたが、「市民メディア」という呼称には同意しなかった。よりカレントな政治や世界の動きへの批判を強める彼らにとっては、市民と言うよりも、より政治的にアクティブな性格を明示する独立メディアという呼称にシンパシーを持つのであった。

呼称に関する同意は得られないにしても、呼称自体は、実は大きな問題ではない。私は、市民メディアであれ、独立メディアであれ、住民メディアであれ、なんであれ、構わないと思っている。しかし、それ以上に重要なのは、作品や情報の相互流通という共通したコンテンツ発信の仕組みと一般市民が「市民メディア」の発信者となる仕掛けを作り上げていくことだ。Web上だけから始めてもよいし、共通企画や人的な交流が図れるだけでも意味がある。

要は、一般の人々が多様なメディアの発信者となるために、有益なコンテンツを流通させ、あらたな人材を発掘することが肝心だと思う。難しいことだけれども、それを進めて行かなくてはならない。

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